« 春雨前線?? | トップページ | 富田木歩 その2 »

2007/03/31

富田木歩 その1

作品や作者の名を忘れた。
ある明治期の骨董屋のことを書いた小説から、哥川を知り、鈴木しづ子を知った。
そこで、そのしづ子のことを書いた江宮隆之の『凍てる指』(河出書房新社1992.4)を読んだ。
その本の中に「冬木風ー木歩の青春」が併載されていた。
こうして、木歩という俳人を知った。
ある句を読んで、感動して、作者を知ったというわけではない。
伝記的小説から木歩を知り、その小説中にある句を読んだというわけである。

したがって、木歩の作品を江宮という小説家の導きによって味わったということになる。
虚心坦懐、真っ直ぐ作品に向き合ったわけではない。

これから、いくつかの木歩の作品を紹介したいのだが、上のことをまず念頭に置いていただければと思う。
もちろん、俳句の何たるかを知らない素人による句をめぐる雑談以外のものではないので、こんな断りをするまでもないかとは思う。

 背負はれて名月拝す垣の外

大正3年木歩17歳のときの作。おそらく句作りを始めたころの作品だろう。
「拝す」というから、背負われているのは、作者自身で、子どもが負ぶわれて月を見ているのを眺めて詠んでいるのではない。
木歩自身が人に負ぶわれて、中秋の名月を観賞している。
垣の外に出ている。月は中空にあるのか、家の中からは見づらいのであろう。
負ぶっている人と負ぶわれている人の関係はわからないが、そばに他の人はいないようだ。
雲はそれほど広がってはいまい。晧晧としたいい月夜のようである。

句としては、とりたてて感心するところはない。

が、しかし、作者は、下半身不随で、歩くことも起つこともできないのである。この背景があるので、この句を彼の句集のトップにおく他ないのだろう。
作品だけを純粋に味わうほかに、作者の人間を感じていく読み方もあるのではないか。
「作品が全てである」と言い切ってもいい芸術なのだが、だとすれば、句の世界が狭くなりすぎる。
もっとミーハー的に、あるいはもっと読者の勝手な読みに委ねてしまう、素人の、庶民のためのものであってもいいのではなかろうか。

|

« 春雨前線?? | トップページ | 富田木歩 その2 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/65127/14468827

この記事へのトラックバック一覧です: 富田木歩 その1:

« 春雨前線?? | トップページ | 富田木歩 その2 »