村松友視 「骨董通り0番地」

乱読だが、多読ではない。最近は、読んだことのない人の小説を図書館でみつけて読んでいるが、おもしろい本に出会う確率は低い。具体的な作家名を挙げてもいいのだが、本人やファンが不快に思うだろうから挙げない。虫けらのような私が、こんな気を使うのも滑稽か?

村松友視の作品は、直木賞受賞作『時代屋の女房』を読んだだけである。あの頃は、芥川賞と直木賞受賞作しか読んでいない時期。つまり受賞作だから読んだわけである。非常にミーハー的読書をしていたわけである。

『骨董通り0番地』は、まったく、私と縁のない人々、場所、薀蓄等で出来ている小説で、それがおもしろかったのだろう。例えば、コーヒーの飲み方。私はインスタントコーヒーの粉末を容器から直接適当に、温めもしない、時として、水滴の入ったままのカップに落として、ポットの湯を注いでおわりとしているが、小説の男たちは、それをコーヒーらしき飲み物としても認めないかもしれない。まったく住んでいる世界が違う。生活の質が違うのだ。流れている時間が違う。

自分の実生活とまるっきり違う。それでも、嫌気もささずに、読み進めることができたのは、知らない世界の情報が得られたことに在るのでは、決してない。ウイスキーやカクテルの名前や作り方など知りたくもない。ひとえに、作者の腕前、文章の力がなせる技なのだろう。小説の世界に悠々と遊ぶことができたのだ。

小説の中に谷崎潤一郎の『天鵞絨の夢』が重要なファクターとして出ている。作家村松は、十二分に谷崎を意識しているのだ。雑誌発表時の原題は『天鵞絨の夢』、完全に谷崎と同じ題名なのだ。文章力のない作家には、とても真似できない試みだ。

やはり小説の基本は、文章力だろう。

  西風に壊れて流る花筏

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抄記

 「あなたは、善人なのだ。いわゆる良心的知識人という種族に属しているのだ。そういう連中は、結局のところ、なにも信じていない。だから、ある日突然、闘争に参加し、それからまた、突然いなくなる。ぼくはそういう連中をたくさん見てきた。彼らの行動基準は、いつも『良心の痛み』なのだ。闘争に参加していないと痛み、それから、参加していても痛み出す。ぼくは、あなたに良心があることを疑わないよ。(略)でも、ぼくはそのような良心を信じない、もちろん、あなたの良心も」
 「きみは言葉を信じない。言葉を信じないということは、なにも信じないということだ。いや、きみには信じているものが一つだけあるよ」(略)「きみが信じているのは『無』だけだ。人は死んで『無』になる。革命は腐敗して『無』になる。友情は打算に負けて『無』になる。若さは、時の歩みに籠絡されて『無』になる。そして、愛は枯れ果てて『無』になる。それがきみの持っている唯一の信仰なんだ。そして、それがきみの救いになっている。きみは、きみの良心さえ信じていまい。(略)」
 「いつかソウル・トレインに乗る日まで」高橋源一郎著 『あとん』 2005.3より

  そして、『無」のほかに、わたしが信じているのは、「あった」である。「ある」と「あるだろう」は信じられない。
 過去の「一瞬のこころの交流」は、あったと信じる。

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