2009/05/30

チェンジング・ブルー

昨日もどうやら記事をアップ仕損なっていたようだ。かなりの重症の忘却症になっているようだ。そこで、明日の備えをしておこうと思う。

明日は月末、「今月読んだ本」を予定している。その中の1冊を今日、前もって書いておこうと思うのだ。

『チェンジング・ブルーー気候変動の謎に迫るー』 大河内直彦著 岩波書店 2008

5月の読書時間は、ほとんどこの本と共に過ごしたような感覚だ。多分、初めて読んだ科学系の本である。まったく門外漢の私が何故この本に手を出したか?『図書』の記事に触発されたからである。つまり、岩波の宣伝策に、まんまと、はまったのである。4月か5月号かの『図書』で、著者が自著(つまりこの本)について語っている頁があり、それを読んで、単純に「読んでみたい」と思ったのである。

もちろん、図書館にあればという前提があったのだが、運良く地元の図書館が所蔵していた。県内他館はほとんど所蔵していなかったから、「いい選択」をしていたと思う。

文句なく、面白い本だった。面白いといっても、内容が理解できたという意味ではない。なにしろ、文科系の、それもアバウトな頭脳の私、このような科学的な、初めて知る分野の言説に、ついていけるわけは、ないのだが、著者には、私のような素人にも十分配慮しているのか、「素人にも読ませる力のある文」を書いている。

出てくる学説も人名も読んだ傍から忘れる、この私にも最後まで読ませてくれた。著者に読ませる文を書く力がある証拠である。もうすこし、若い、記憶力の在る時代に、このような本を読む機会があったならと衰えた頭脳を残念に思う。

一言で言うなら、これは「気象学史」。学問の歴史を記述して、恰好の気象学入門書となっている。すべての学問に、このようなすぐれた入門書があれば、どんなにいいことかと思う。

  四六時中曇り脳一瞬の青空

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2009/04/30

今月読んだ本

4月に読んだ本です。

『孤独の歌声』 天童荒太 新潮社 1994

『砂冥宮』 内田康夫 実業の日本社 2009

『強運の持ち主』 瀬尾まいこ 文藝春秋 2006

『流星の絆』東野圭吾 講談社 2008

『図書館の女王を捜して』 新井千裕 2009

『イツモ。イツマデモ。』 高橋歩 A-Works 2006

『ダーリンの頭ン中』 小栗左多里&トニー・ラズロ メディアファクトリー 2005

『図書館の神様』 瀬尾まいこ マガジンハウス 2003

『川の光』 松浦寿輝 中央公論新社 2007

  さて、印象に残っているのは??ないですねえ。

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2008/04/21

村松友視 「骨董通り0番地」

乱読だが、多読ではない。最近は、読んだことのない人の小説を図書館でみつけて読んでいるが、おもしろい本に出会う確率は低い。具体的な作家名を挙げてもいいのだが、本人やファンが不快に思うだろうから挙げない。虫けらのような私が、こんな気を使うのも滑稽か?

村松友視の作品は、直木賞受賞作『時代屋の女房』を読んだだけである。あの頃は、芥川賞と直木賞受賞作しか読んでいない時期。つまり受賞作だから読んだわけである。非常にミーハー的読書をしていたわけである。

『骨董通り0番地』は、まったく、私と縁のない人々、場所、薀蓄等で出来ている小説で、それがおもしろかったのだろう。例えば、コーヒーの飲み方。私はインスタントコーヒーの粉末を容器から直接適当に、温めもしない、時として、水滴の入ったままのカップに落として、ポットの湯を注いでおわりとしているが、小説の男たちは、それをコーヒーらしき飲み物としても認めないかもしれない。まったく住んでいる世界が違う。生活の質が違うのだ。流れている時間が違う。

自分の実生活とまるっきり違う。それでも、嫌気もささずに、読み進めることができたのは、知らない世界の情報が得られたことに在るのでは、決してない。ウイスキーやカクテルの名前や作り方など知りたくもない。ひとえに、作者の腕前、文章の力がなせる技なのだろう。小説の世界に悠々と遊ぶことができたのだ。

小説の中に谷崎潤一郎の『天鵞絨の夢』が重要なファクターとして出ている。作家村松は、十二分に谷崎を意識しているのだ。雑誌発表時の原題は『天鵞絨の夢』、完全に谷崎と同じ題名なのだ。文章力のない作家には、とても真似できない試みだ。

やはり小説の基本は、文章力だろう。

  西風に壊れて流る花筏

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2005/03/15

抄記

 「あなたは、善人なのだ。いわゆる良心的知識人という種族に属しているのだ。そういう連中は、結局のところ、なにも信じていない。だから、ある日突然、闘争に参加し、それからまた、突然いなくなる。ぼくはそういう連中をたくさん見てきた。彼らの行動基準は、いつも『良心の痛み』なのだ。闘争に参加していないと痛み、それから、参加していても痛み出す。ぼくは、あなたに良心があることを疑わないよ。(略)でも、ぼくはそのような良心を信じない、もちろん、あなたの良心も」
 「きみは言葉を信じない。言葉を信じないということは、なにも信じないということだ。いや、きみには信じているものが一つだけあるよ」(略)「きみが信じているのは『無』だけだ。人は死んで『無』になる。革命は腐敗して『無』になる。友情は打算に負けて『無』になる。若さは、時の歩みに籠絡されて『無』になる。そして、愛は枯れ果てて『無』になる。それがきみの持っている唯一の信仰なんだ。そして、それがきみの救いになっている。きみは、きみの良心さえ信じていまい。(略)」
 「いつかソウル・トレインに乗る日まで」高橋源一郎著 『あとん』 2005.3より

  そして、『無」のほかに、わたしが信じているのは、「あった」である。「ある」と「あるだろう」は信じられない。
 過去の「一瞬のこころの交流」は、あったと信じる。

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