10月に読んだ本

今月は中島京子月間でした。以下の作品は全て中島京子の著作でございます。

『ツアー1989』                   集英社          2006.5 
『平成大家族』                    集英社          2008.2             
『エ/ン/ジ/ン』                    角川書店         2009.2
『冠・婚・葬・祭』                   筑摩書房         2007.9
『均ちゃんの失踪』                 講談社          2006.11
『FUTON』                     講談社              2003.5
『桐畑家の縁談』                 マガジンハウス            2007.3
『さようなら、コタツ』                      マガジンハウス           2005.5
『イトウの恋』                            講談社          2005.3
『ココ・マッカリーナの机』                   集英社文庫       2006.4
『ココ・マッカリーナのしみこむしみこむえほん』主婦の友社       2005.10
『Re-born:はじまりの一歩』          実業の日本社     2008.3
   「コワリョーフの鼻」中島京子著を含んだ短編集 他の作品も読んだ
『自然と環境にかかわる仕事』          主婦の友社      2000.8
「ゴセイト」 『放課後。』所載        ジェイブ・ピュアフル文庫  2007.7
   これ以外の作品は未読 
『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった。ー脱OLの見習い先生日記』
                             主婦の友社      1999.3
   これは『ココ・マッカリーナの机』として文庫化された。この本も実際に手にとって、文庫本と比べたことは既報。

  『ライターの仕事』(主婦の友社2000.8)「ボジョとユウちゃんとなぎさドライブウェイ」『旅を数えて』光文社(2007.8)の2作品はまだ読んでいない。前者はともかく、後者は読んでみたいと思っている。

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ココ・マッカリーナ PART  Ⅲ

中島京子の作品、いまのところ、23点確認できた。ただし、単行本化されて、出版されたもので、雑誌に掲載されただけの作品については、調べていない。

うち、文庫本化された作品が5点あるので、実質は18点となる。また、うち3点は、合集書名を持つ、別の作者の小説を5,6作、合わせた短篇小説集になっている。

いずれ、「中島京子読書案内」的なガイド記事にまとめるつもりでいるが、きょうは、その前段階、いわば前座である。

『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わったー脱OLの見習い先生日記』
              主婦の友社 1999.3
  と、それを文庫本化した
『ココ・マッカリーナの机』  集英社文庫 2006.4  の異同を目次を中心に見てみたい。

 『だいじ・・・』                 『マッカリーナの机』
  はじめに                 [異同がないときは記載しない]
  ニンジャ
  アッサム!                 Awesome
  何をコドモはほんとうだと思うか
  テンプラ
  ドンキー・フランキー!
  コドモたちは一茶が大好き
  カラテ・キッズ
  セント・パトリックス・デー
  英語
  スティーブさんのトウキョウ見物
  バスケットボール
  アルマンドと赤毛
  アダプション
  こういったガーデンの味
  魅惑の退職ダイエット
  こっちにだって巨人はいるぞ
  やきそば
  ココ・マッカリーナはお金持ち
  東京のプリンスたち
  あの人、ちょっと私に優しいと思わない?
  ママに殺される!
  十四歳
  「つあ」「アイ ガーリー!」
  アメリカ文化の重要なものはすべて幼稚園の年少クラスで学んだ
  今いちばん読んでみたい本
  最後の授業
  海兵隊                           ネイビー
  英作文
  サムの夏休み
  うちはコドモが五人もいるのよ
  テイラー・ワシュコーヴィッツ
  マーク・ワシュコーヴィッツ
  歌う校長先生

  追記
             ココ・マッカリーナ、再びプレマートンへ行く
                            解説 豊崎由美

最初の書名だと教育関係の本かと思うかもしれないが、(舞台はほとんど学校で教育と無関係ではないが)、教育書ではない。あくまで「アメリカ地方都市(シアトル近郊のプレーマートン)印象記」であり、エッセイ集である。

  曇れば陰鬱秋日暮れ

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ココ・マッカリーナ PART Ⅱ

昨日の続きです。昨日何か書き忘れたと思っていました。さっき、「米搗き」に行って、機械が回っているのを待っていたときに思い出しました。ココ・マッカリーナこと中島京子さんが私とほぼ同じことを考えていたことです。

『ココ・マッカリーナのしみこむしみこむ絵本』70頁からの引用です。

「何かを読むことと旅をすることは似ている。どこか途方もない、いままで知っていた何かとは違うところへ連れて行かれる一方で、自分がよく知っていたと思える何か、まさしく出会いたかったものと出会ったのだと確信させられる。[改行]そんな感覚を味わいたくて、旅に出たり、本を手に取ったりする。」

「旅と読書が似通っていること」 おそらくほかにも同じようなことを言っている人がいるのではないかと思いますが、最近とくに、自分のなかで、思っていたことなので、中島さんの文章を読んだときに「そうだ。そうだ」と思ったのでした。

いろいろな条件の重なりで、旅に出る機会が減っています。その代わりという意識はまるでなかったのですが、このところ、読む本の数が増えています。こうして、バランスをとっていたのでしょうか。

「いやー読書ってほんとうにいいものですね。」「いやー旅ってほんとうにいいものですね」後者の方がちょっとcool and smartですが。

    いつのまに落葉踏む音聞こゆ夜

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ココ・マッカリーナ

Kyoko Nakjimaを、アメリカの幼児は、発音するのが難しくて、Koko Makkarynaのように発音したらしい。つまりココ・マッカリーナとは、中島京子のことである。

この2週間以上、毎日、中島京子の本を読んでいる。小説は、ほぼ全作読み終え、今日は『ココ・マッカリーナのしみこむしみこむえほん』(主婦の友社 2005)を読んだ。

「絵本への案内」をする本、この種類の本は、昔、自分の仕事に関係があったので、随分手にしてきたし、今でも何冊か所蔵しているが、なにしろむかしのことである。そのことを身にしみて、身にしみて感じている。商品カタログを兼ねた本なので、紹介しているアイテム(絵本と関連グッズ)は私には計算できないくらい多い。

多いが、その半数強を知らない。現場を離れて7年になろうか。また、現場にいた晩年数年は絵本に見入ることはなかったから、10年、新しい絵本を見ていないことになろうか。

中島京子の小説デビュー作『Futon』は、田山花袋の『蒲団』の読者を若干増やしたらしい。『女中譚』では、3つの古典的作品を紹介し、『イトウの恋』では、イサベラ・バードの「日本奥地紀行」へと読者を誘うかもしれない。

そう。私も、誘われて見ようと思い、知らない絵本名をパチンコ屋の広告の裏に書き抜いてみた。これからは、図書館に行くたび絵本コーナーに立ち寄ることになる。

  みにしみて年感じおりメグホソキ

  

  

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9月に読んだ本

女中譚』 中島京子 朝日新聞出版 2009

『夜は短し歩けよ乙女』 森見登美日彦 角川書店 2006

均ちゃんの失踪』 中島京子 講談社 2006

『ハブテトルハブテトラン』 中島京子 ポプラ社 2008
   少年少女小説 大人用仕立てになってるのは、少子化と子どもの活字離れの影響 か?この方が売れるのか?

キッチン』 吉本ばなな 福武書店 1989

『夜明けの縁をさ迷う人々』 小川洋子 角川書店 2007

  赤字以外は、いまひとつでした。

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八月に読んだ本

すっかり、嫌になりました。自分がです。愛想も小想も尽きました。月末に、つまり、昨日、「今月読んだ本」をアップすることにしていました。そのことを朝も昼も記憶していたのに、その上、ほかに書くべきなにごともなかったのに、忘れてしまっていたのです。

驚くべき現象です。嘆かわしき現状です。こんなに記憶する能力が衰えるなんて、恐ろしいです。

『重力ピエロ』 伊坂幸太郎 新潮文庫 2003

『イーハトーブの幽霊』 内田康夫 1995

『吸血鬼 お役者捕物帖』 栗本薫 1984

『蝶々喃々』 小川糸 ポプラ社 2009

『初めての梅ー船宿たき川捕物暦』 樋口有介 筑摩書房 2009

『初秋』 ロバート・パーカー 菊池光訳 早川書房 1983

『食堂かたつむり』 小川糸 ポプラ社 2008

『螻蛄』 黒川博行 新潮社 2009

『警部の証言』 笹沢左保 祥伝社ノン・ポシェット 1995

『看守眼』 横山秀夫 新潮社 2004

 赤字表示した本が、「まあ、読んでよかったかな」という本でした。

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先月読んだ本

ココログの障害で、「今月読んだ本」が「先月読んだ本」に変更になりました。ココロが少しサワギマス。

『東電OL殺人事件』 佐野眞一 新潮社 2000

『風の歌を聴け』 村上春樹 講談社 1979

『時の渚』 笹本穣平 文藝春秋 2001

『7days in BALI』 田口ランディ 筑摩書房 2002

『島の少年』 内海隆一郎 河出書房新社 1997

『永遠の1/2』 佐藤正午 集英社 1984

『透明な旅路と』 あさのあつこ 講談社 2005

『樅の木は残った(上)』 山本周五郎 新潮文庫 1958

   『東電OL殺人事件』は、続編を先に読んだので読んでみたのだが、続編のほうがデ   キとしては、よかったのではないか。殺されたOLの深層心理への迫り方と犯人とされているネパール人無罪説。続編の方に力があったと思う。それにしても「裁判員制度」に我々は正しく参加できるのだろうか。プロが描くシナリオに完全に組み入れられるだけで、苦くて、苦しい記憶だけが残る人が大勢生れるだけではないのか。冤罪事件に巻き込まれてそれを回避できる可能性はほとんど無いと思うのだ。

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タルト・タタンの夢

「タルト・タタンの夢」 読み終えた本の名前なのです。それでもタルト・タタンって、何なのかが、わかっていません。フランス料理店の話でしたから、料理の名前、デザートの名前のような気がします。

その料理店で起こる謎をシェフが解く、シャレた味わいの短編集です。

もっとも、味噌汁に納豆、焼き魚、漬物、そんなものしか口にしていない男にはチンプンカンプンの献立でございました。とにかく出てくる料理のすべてが分かりません。

それでも、なんとか、面白く読み終えました。「殺人事件のおこらないミステリ」を捜そうとおもっているものですから・・・。切実感もなにもないミステリですが、こんなミステリ、好きなんです。北村薫にもありましたね。もう書名も登場人物も忘れていますが・・・。

  口にする期もなきレシピ目で食べる

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今月読んだ本

『夏のしっぽ』 前川麻子 講談社 2007

『鳥かごの詩』 北重人 小学館 2009

『東電OL症候群』 佐野眞一 新潮文庫 2001

『空室:1991-2000』 柴田千晶 ミッドナイト・プレス 2000

『チェンジング・ブルー』 大河内直彦 岩波書店 2008

『脱「貧困」への政治』 雨宮処凛ほか 岩波ブックレット 2009

『わくらば日記』 朱川湊人 角川書店 2005

『タイム・ラッシュー天命探偵真田省吾ー』 神永学 新潮社 2008

  『空室:1991-2000』は『東電OL症候群』中の記事から読もうと思った詩集である。

  雨季雨季と毒毒読書目が霞み

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今月読んだ本

ブログネタ不足を補うために毎月末、その月に読み終えた本を登場させることにした。多分、書名の列挙だけで終わるだろう。

『ハードボイルド・エッグ』 荻原浩著 双葉社 1999

『アレグリアとは仕事はできない』 津村記久子著 筑摩書房 2008

『ひかり62号の殺意』 西村京太郎著 新潮社 1987

『むかしのはなし』 三浦しをん著 幻冬舎 2005

  落雪の屋根打つ音にリズムなし

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『旅の重さ』 その3

  われ神に申さん
  我を罪あるとしたもう勿れ
  何故に我とあらそうかを
  我に示したまえ
   (ヨブ記第十章第二節)

この章句が『旅の重さ』の中扉の裏に印刷されている。
著者の原稿にあったものと考えられる。

ヨブのような心境に著者は当時いたものなのか。
少なくとも作品が、ヨブと全然無関係だとは思われないから、ヨブ記の解説書を読まずばなるまい。
岩波新書の『ヨブ記』には、第十章への言及はないようだから、遠くの図書館へとまた出かけて行かなくてはならないか?

それから、素九鬼子さんは、何故原稿を由起しげ子さんに送ったのか?
彼女の作品もまた読まずばなるまい。近くの図書館は由起しげ子作品を所蔵していないから・・・。

このように1冊の本から、ほかのいくつかの本へと読書の旅は続くもの。この旅を重いものにするのではなく、手軽なものとするために図書館はあって欲しい。

さて、かつて赤ちゃんと図書館を訪れたお母さんをがっかりさせた図書館の現在はどうか。
私が訪れたちょうどその日から、図書館へのリクエストを制限することにしたそうだ。
図書購入費が底をついたそうである。
来年度はもっと早い時期に底をつくことが十分予想されるそうである。

合併により、図書館のない町にいた職員が、トップに坐っているようで、どうやら理解がないようだ。
私が勤め始めたころの「学生の勉強部屋」は、今は「無料の貸し本屋」になっている。少なくとも、自治体のお偉いさんたちの理解はそうだ。

来年度は年間図書購入費300万円ということも考えられるとか。
これでは完全に35年前に戻ってしまう。
かつて赤ちゃんと図書館を訪れたお母さんをがっかりさせた図書館がまたできるのだ。

寒い寒い冬である。

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『旅の重さ』 その2

『旅の重さ』
その誕生のしかたにドラマがあったようだ。

著者の承諾なしに、いや、承諾をとろうにもその方法がなくて、出版社は、やむなく、著者が何処の誰かということも分からない状態で出版した。

その間の説明が、巻末の「この作品の上梓にあたって」にある。
この作品は、作家由起しげ子さんが、なくなられたとき、机辺に積み上げられていた原稿類のなかから見つかった。整理にあたった『作品』誌編集長八木岡英治氏が発見したもので、そのまま埋もれたままにするには惜しいという判断から、刊行したことなどが書かれている。

素九鬼子は本名内藤恵美子、旧姓は松本。1937年愛媛県西条市生まれ。県立西条高1年中退。結婚後、『旅の重さ』の原稿を由起しげ子に送る。由起しげ子の死後、原稿が発見されて刊行されたのは上に述べた。
ほかに『パーマネントブルー』1974、『烏女』1977、『鬼の子ろろ』1977、 『さよならのサーカス』1977、『大地の子守歌』1974の刊行本がある。
作品「パーマネントブルー」、「大地の子守歌」、「ひまやきりしたん」 で、三度、直木賞候補に挙げられたが、いずれも落選している。

「旅の重さ」の原稿段階の執筆了日付は、1964(昭和39)年9月。初版刊行年月は1972(昭和47)年4月30日。27歳で執筆完成し、刊行の2年後、1974年、37歳のときに名乗りをあげ、1974年から1977年にかけて上にあげたような作品を発表し、それなりの評価を得たようであるが、その後また出版界と没交渉になり、刊行元の出版社でも連絡先がわからなくなっているようである。

「旅の重さ」「大地の子守歌」「パーマネントブルー」が映画化され、2000年台になって、前2作がDVD化されている。原作料が発生しているだろうから、その方面からのアプローチは可能だとは思うが・・・。

さて、さて、私は、ここで何を書こうとしていたのかも分からなくなった。どうでもよくなってしまった。根気がなくなった。が、始末だけはつけておかなくてはなるまい。

小説の中身。夏休み直前、母親と二人暮しの女子高生が、家出をして、愛媛県新居浜から高知県土佐清水まで歩いた旅。遍路のような、あるいはヒッチハイカーのような旅。その間の出来事を母親に手紙で報せる手紙文で全篇が成り立っている。旅芝居一座と行動を共にしたこと、土佐清水で出会った漁業関係の労働者の男との生活が、その間の大きな出来事である。この新居浜から土佐清水までの移動を重い旅と称していいのだが、当然のことながら心の旅がある。16歳前後の少女のヒリヒリした青春が描かれていて、老醜漂う私が今読んでもそんなに不可解すぎてわからないという部分はない。日本の青春小説ベスト10に入らなくても、15には入れてもいいのではないか。

なんだか、また、根気がなくなった。明日に続くとしておこう。


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『旅の重さ』 その1

書店員や図書館員は、たくさんの書名を自然に覚えるが、ほとんど中身を読むことはない。
まず、物理的に無理である。

そのなかで奇妙にある書名が忘れないで、記憶装置のなかに残っていることがある。
ほとんど壊滅状態のわたしの記憶装置にある『旅の重さ』はそんな1冊である。

素九鬼子という作者名もはっきりと覚えている。
ただ、それは情報だけで、本そのものには触れた記憶がない。

このブログの「今日は棒に当たりました」2008.1.12に書いたように、『お遍路』という本を読んでいて、『旅の重さ』を思い出し、図書館から借りて、読み終えたので、そへんのことを書いてみたい。

その最初の記憶は、昭和50年だと思っていたが、それは間違いで、昭和48年であった。
私が東京からみちのくへと移住した年である。

その記憶をたぐる旅に今日出かけてきた。
そして私が書いた文章を入手してきた。

つぎのような文章である。
「読みたい本のない図書館なんてなんとかを入れないコーヒーどころか、医者のいない病院みたいなものだ。」このことばほど図書館員の私にこたえることばはない。過日一階のカウンターにいると、赤ん坊をだいたお母さんがやってこられ、貸出しコーナーの書架をたんねんにごらんになり、やがて私のところへきて「『旅の重さ』ございますか」といわれた。「ございません」と答えると、すぐにお帰りになった。乳母車で坂道を下られるのか、上がられるのか、どこまで帰られるのかは知らない。いずれにしても『旅の重さ』という本だけを求めて来たようであった。「ございません」と答えるほかなかった私の心の重さも、あの母親の足の重さに比べることはできない・・・。(K.T)
 昭和48年12月号「としょかんだより」 vol.29.「ひろば」欄
 そして、この文章のあとに
「ひろば」欄では、利用者のみなさんの投稿をお待ちしています。本の感想、図書館や館報に対するご意見、ご希望など、なんでも、お気軽にお寄せください。
 という文が添えられている。

利用者の生の声を武器にするほかないと考えていた青い自分の姿が回想される。なお、この文章等を契機に「としょかんだより」の中身のチェックが強化された。

「ひろば」に登場する母親は、おそらく映画化の情報から原作をと発想されたのだろう。いま、その映画のキャスティングをみるとなかなかの顔ぶれ、DVDででも観てみたいと思う。

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読書推進のための装置

いま、歩いている。
血糖値が上がったので、医者に勧められて歩いている。
以前は「ジョギング」をしていたのだが、「ウォーキング」に代えたのだ。
ウォーキングなら、腰に違和感があっても、悪化させないのがいい。
ただ、ジョギングより、いろいろ余計なことを考えてしまうのが欠点である。

ジョギングも考えるのだが、走る路面や付近に気を使うだけ、つまり走ることに集中するだけ、余計なことが頭を去り易い。汗をかき、体内から毒素が消えていくような感じがないのもウォーキングの欠点であろうか。

読書推進について、歩行中に考えたことを書くというのが、今日のブログのテーマであるが、どうもいけない。

草むらを歩行中にマムシが潜んでいるのではないかという恐怖にとらわれた経験がある。いちどこのマムシがいそうだと思ってしまうと、もう歩けなくなる。どうしても、その草むらを越えて行かなくてはならないときもあったが、その恐怖感といったらない。いま自分の人生の行き先にその草むらを見ている。越えて行くしかない。進路は別にない。そんな恐怖感から逃れる方法として、つい、昨日は、「読書推進法」を考えていたのだが、今日は、本来のマムシへの恐怖感が襲ってきた。だから、「アラスジ」だけ書いておく。

健康ウォーキング」というサイトがある。
そこに8つのコースがあって、同好の士が適当なコースを歩いている。
毎日の歩行数を入力すると週計や月計などが出てくる。順位もわかる。
怠けがちな人には、いい刺激になる。

これを読書でやろうという提案である。「読書マラソン」等のサイトもいくつかあるが、「読書は自由」概念が当然あるので、あるサイトに閲覧者が集中し、継続していくことがないようだ。

多くの同好の士を集め、長く継続させるための装置にすることが肝要だろう。
読書活動推進協議会あたりで検討いただくといいと思う。

コースの設定がポイントになるだろう。
それとウォーキングにおける歩数に該当する読書量を表す単位をどうするか。テキストを強引に決めるか?標準量を設定しておくか?
すべて文庫版に限定するのも有力な案となるだろう。

コースの具体案まで作成して提案したいと考えていた。これが一番面白い作業だと思ってもいた。ところが、そんな余裕が、とくに精神的な余裕がまったくない自分のことを忘れていた。変な話である。狂ってきたのかも知れない。

 秋夜長浄瑠璃集を紐解かん

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浅倉卓弥の小説 余談

耄碌するとモーロクデモナイことになります。
浅倉卓弥の小説、3冊目を図書館で借りて読み始めていました。
前に読んだ2作とは若干文章が違うかなと思いながら読み始めました。
失業状態の青年の話。『雪の夜話』でも似たような部分があったなあ・・・。
読み続けるのに努力が要る。これが、前に読んだ本との違い。どうしてかなあ・・・。

朝倉裕弥の『救済の彼岸』を読んでいたのでした。
記憶力が衰えているのです。自覚して注意しているのですが、こういう失敗を繰り返すのです。
きょうは、間違いなく『北緯四十三度の神話』浅倉卓弥著 を借り出しました。
雨だったので、もう半分ほど読み進みました。読み続けるのに努力はいりません。読み易いのです。
姉妹の話。

図書館に行ったついでにリクエストしておいた本がどうなったいるのか尋ねました。
リクエストした日にちを聞かれたので、3月末か4月初めだとこたえました。
もしかして2月末か3月初めだったのかも知れません。
一月くらい平気で間違えるのです。

 耄碌の白濁脳や春の雨

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浅倉卓弥の小説

まったく知らない作家だった。
知らないから手にとった。
『四日間の奇蹟』で何とか賞受賞作で、映画化もされていた。
そんなことも知らなかった。

ミステリだと思って読んだのだが、ミステリではない。
じゃー、どういう小説かというと
やっぱりミステリかもしれないし、ファンタジーかもしれない。
どの範疇に押し込めても、ちょっと疑問符がつく。
そもそもこの小説は、カテゴリー分けに反対しているのかもしれない。

『四日間の奇蹟』が意外に面白かったので、別の作品を手に取った。
『雪の夜話』という。

雪の幽霊のような少女と青年との交流を描いたもの。
まず。老人の私には関心の持ちようもない話か、退屈だったら、途中で読むのをやめよう。
そんな積りで読み始めた。昨夜9時過ぎ、床の中で。

気がつくと12時前になっていた。
こんなに遅くまで起きていたことは、この5年ほどはまったくない。
それだけ、作品世界に惹き込まれていたのだろう。
若い作家の若者向けの作品に。

どうしてか、自分でも不思議だ。
好みのミステリでもないのに、傑出した作品でもないのに。
もうすぐ読み終わるから、もう一作付き合ってみようと思う。

 読み終える『雪の夜話』春暮れる

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中世の秋

フルマラソン42.195kmを経験すれば、10kmなど軽いものだ。
5kgの鉄アレイで筋トレを毎日しておれば、2kgの鉄アレイなど何でもない。
ドストエフスキーの長編小説を読了すれば、ちょっとした本を読むことなど軽くできる。

というような昂揚感をバネにして、ホイジンガの『中世の秋』を読み終えた。
これには、ちょっとした、前史というのもオーバーだが、プレストーリーがある。

ドストエフスキーの読了後、彼に関する埴谷雄高と加賀乙彦の評論を読んだことと、柳澤桂子の『生きて死ぬ智慧』『いのちの日記』を読んだことは、以前に述べた。
それに続き、下のような雑多な小説もたくさん読んだ。
一月に3,4冊がやっとだった私にしては、たくさん読むようになった。
これを私はドストエフスキー効果と読んでいる。
もっとも、読むのではなかったというような駄作をたくさん読んでいる。

阿刀田高『影まつり』近藤史恵『凍える島』北森鴻『花の下にて死なむ』犬飼六岐『筋違い半介』笠井潔『道 ジェルソミーナ 私立探偵飛鳥井の事件簿』内海隆一郎『人びとの光景』大沢在昌『らんぼう』高橋義夫『若草姫』高橋治『うず潮のひと』
あと1冊なんだか半分思い出しているのだが、作者も書名も出てこないのを、ごく最近読んだのだが・・・

そのうちの笠井潔の作品中に『中世の秋』が出てきたのだ。主人公の私立探偵がアメリカに住んでいたとき、奥さんを亡くすのだが、その病床に付き添っていたときに、奥さんに『中世の秋』を英語版で読んであげていたシーンを回想する場面がある。(奥さんはアメリカ人)そこを読んで、私は、そうだと思った。あの本は、ときれとぎれに、少しずつ読み次いでいく本だと思ったのだ。あの本は朗読に向く。逆に言えば、西洋中世史の学術書としてではなく、読んだ側から忘れ去っても、それは、それで面白い作品だと思ったのだ。そこで、早速、わたしの貧弱な書物群を探してみると『ホモ・ルーデンス』があって『中世の秋』はなかった。勘違いか記憶違いか、『中世の秋』の方を読みたいと思い購入していたと思っていたのだが・・・。

しかたなく図書館で借りてきた。余談だが「中世の秋」の書名からでは、検索ができないOPACを持つ図書館が結構多い。外国人の著者名表記は多様になるので、書名からの検索は出来るようにしておくべきだと思う。

中央公論の『世界の名著』中の1冊は、朗読して楽しむ本の体裁としては不向き、やはり単行本を購入しておくべきだっと反省した。それから、読むべきタイミングの問題。ドストエフスキーも青年時代に読んでおくべきだった。読んだ側から忘れてもとは言ったが、『中世の秋』も、やはり記憶力豊かな青年期に読んでおくべきだったと個人的な反省をしている。ホイジンガの叙述は、風呂敷を次から次へとひろげていくスタイル。また、別の話題のときにもさっきひろげた風呂敷にまた戻るといったもので、ちょっとやそっとではその論述構造の全体がつかめないので、若い知識欲旺盛な時代に読みたかったと反省したのだ。もちろん、老境に入っての再読は、それは、それで意義があるのだが・・・。

「中世の秋」の英訳、秋を「世界の名著」の巻頭にある解説頁では、The maining of Middle Ages としている。我輩の辞書にはmainingはない。このタイトルの秋は、一般にイメージしやすい山一面の紅葉や銀杏の黄色の秋ではなく、衰退していく時を言っているので、mane,maningが正解なのだろう。蛇足であった。

 いつまでも春は遠くて桜餅


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ドストエフスキーの主要作品

『新潮世界文学』という世界文学全集がある。
発行当時は、「個人全集でつくる世界文学全集」といったようなキャッチコピーで宣伝していた。
1960年代から70年代にかけて出た文学全集で、私の住む県内の公共図書館では完全に揃えているところはない。

ドストエフスキーは、その全集全49巻中の6巻分と一番多く収録されていて、主要作品は全部読むことができる。
そう当時は思って6冊全部購入して置いた。でも『罪と罰』の一部分を除いて、読んではいなかった。
折角購入して、まったく目を通さずに古紙にしてしまうのも気が引けるから、昨年秋から読み始めていた。

この風邪さわぎの直前に全巻を読み終えたので、自慢話の一つに加えて、このブログでも大々的に吹聴したいと思っていた。が、風邪のためにどうブログに書いていいのかわからなくなった。

物理的な分量だけでもすごい量になる。
内容が物凄いのはいうまでもない。

ドストエフスキーを老人になって読む。逆にいえばドストエフスキーを読まないで人生の大半を送ってしまったことへの後悔みたいな感情と、あんなに重い荷物を背負わされていたかと思うと読まないでいてよかったという実に低レベルな感想を持っている。

こんなに凄い小説を読まないで人生を終わったのではない、という、そのことだけを今は自分を自分で評価しておきたい。
読了後、加賀乙彦と埴谷雄高の解説書も読み終えた。この分だともっともっと関連書を漁っていくだろうと思う。

 腰痛の予感のなかの春の風

 

 

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さようなら、私の本よ!

『新リア王』以降いくつかの本を読んだ。そのうち数点は、このブログにも登場させた。
読むのではなかったという本もなかにはあったが、メモだけでも残しておきたいと思う。

『竜宮』 川上弘美著
『溺レる』川上弘美著
『容疑者Xの献身』東野圭吾著
『藍色回廊殺人事件』内田康夫著
『半次郎捕物控ー疑惑ー』佐藤雅美著
『帰ってきたアルバイト探偵』大沢在昌著
『さようなら、私の本よ!』大江健三郎著

これらをドストエフスキーを読む間に入れて読んできた。

文句なく、凄い本だと思ったのが、『さようなら、私の本よ!』大江健三郎著
私、大江作品はほとんど読んでいない。理由はよく判らない。
多分、読む力が私には、ないのだろう。
だから、今回も、期待して読んだわけではない。
案の定、最初の数頁で、読むのを断念しかけたのだが、雪に閉じ込められて、しかたなく、読み続けているうちに止められなくなった。

たまたま読んだ記憶のある『取り替え子』と同じ人物が登場する。私小説のようなところもある、ルポルタージュのようなところもある、とにかく凄い小説だ。(『取替え子』に始まる三部作のようだが、二作目は読んでいない)

70歳過ぎの作家に、こんなに、激しく揺さぶられては、それより少し若い私も、動揺するほかない。
たかが、一篇の小説に、こんな力があろうとは?

 寒木の枝に雪球しがみつき
 

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新リア王

高村薫の『新リア王』上・下 871頁をようやく読み終えた。
本書の前編に当たるらしい『晴子情歌』は読んでいない。
また、シェイクスピアの「リア王」を知らない。

だから、作者の壮大な文学世界の構造も理解できていない。
ただ、読み終えたというだけである。

大体に置いて、もう私には、これほどの長編を読み通す力がない。
なにしろ、昨日まで読んだ部分を、今日読むときに探し当てても、ほとんど、そこまでの話の半分くらいを忘れてしまっているからだ。

それでも、面白い小説だった。内容等は、ネっト上に詳しい情報があるので、私のつまらぬ紹介はいらないだろう。

実力政治家である父が政治哲学あるいは政治の実際を喋る。
その息子の一人で仏家である人間が仏教哲学あるいは修行の実際を喋る。
小説の骨格は、この二つからなる。

どちらの底にもニヒリズムが横たわっているような気もするが、作者の意図は、そんなものではないようだ。
私が勝手に、そんなニヒリズムを感じただけだろうが、だが、私には、それで十分である。

人の未来、世代の未来など見たくても見えない。そしてまた、生きてきた過去の意味もまた虚しい。

 今日暮れて明日の寒さを約定す
 

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中村屋のボーズ

作者の中島岳志なのか、この本がなのか、よく知らないが、なんとかいう賞をとったらしい。
最近の新聞紙上で、かなりスペースをとった対談記事がでた。
対談相手は著名な人だったような記憶があるが、誰だったのか。

最近の私の記憶は、この調子で、正確な情報は、ほとんどインプットされていない。

その対談記事が興味を惹いたので、機会があれば、読んでみようと思っていたのだが、地元の図書館にも書店にもなかった。隣の市の図書館に別件で行ったとき、たまたま、その記憶が甦ったので、検索機を操作してみるとうまい具合にあった。借り出して2日で読了した。340頁もの評伝。もっと時間がかかるだろうと思っていたのに、意外に速く読めた。

内容は、いくつものネット情報があるから、なにも紹介しないが、面白かった。相馬黒光・中村屋・ボースといずれも既知の人だったり、店だったりするのだが、インドカリーを食べたことも、『黙移』を読んだこともない、まして、インド独立運動と大東亜戦争との関連や近代日本のアジア主義など何にも知らなかった自分を恥じながら読んだ。

結局のところ、ボースは、日本帝国の軍事力を利用して、反英闘争に勝利し、インドを独立させようとしたが、道半ばで、病死する。本当の思想は、西洋の物質的近代を超克して、宗教的アジア主義による国際平和を構築するところにあったようだが、所詮、植民地インドを英国から独立させるために日本の植民地政策を擁護したナショナリストに過ぎなかった、という段階で病死する。これが、彼の本質だったのか、不幸だったのか・・・。

勝つ人と、負ける人をつくるだけの競争社会になってしまった現在への反省が、世のため、国家のために死ぬことが出来た過去を呼び起こしそうになりつつある今、生きることの意味を根底から考え直す、ひとつのきっかけを与えてくれた本である。

もう少しアジアを考えてみたい。

 年の瀬をなすこともなく暮らしけり

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『「終戦日記」を読む』を読む

 戦後60年が経った。その60年をずっと生きてきたのだが、「戦争」を知らないし、知ろうともしなかった。
 怖いものから目をそらし、直視しないのが、わたしの性。

 「ヒロシマ」「ナガサキ」「」東京空襲」の被害だけでなく、加害写真もたくさん出版されているそうだが、直視したことがない。「ヒロシマ」を上映中の映画館から外に流れる音声を耳にして、恐怖で足がすくんだ記憶がある。中学生のころだ。

 直視しないとホントの理解はできないといわれるが、それでもできない。そんな惨い場面はできるなら、見ないで過ごしたい。写真ではなく、事実を見た人、そんな経験はだれも繰り返したくないだろう。だから、苦しいのを承知で、「後世に戦争を伝える」人がいる。野坂もその中の一人。

 今回読んだ「終戦日記」は、そんなに惨い場面の多い日記ばかりではない。もっと、日常がむしろ淡々と記されている。昭和20年前後の日本の一日が複数の日記と作者野坂の体験から読み取れる。特に「玉音放送」後の、日本人の生き方、戦争責任が雲散霧消していく様子がよく分かった。

 昨日は、自民党の憲法改正案が新聞に大きく載った。今日は、在日米軍再編中間報告が大きく載っている。あの鬼畜米英は、いつどこへ消えたのか。それはなぜか。

 「そんなことより食うメシを」奪い合って生きてきた日本民族の60年。その現在の姿。大多数の日本人は、それに異議を唱えない。戦後とまったく同じである。戦前とまったく同じである。わたしは、戦争は怖い。そのことだけは、いい続けたい。

  秋大空ジェットの機影上昇す

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ファスト風土化する日本

 三浦展の『ファスト風土化する日本ー郊外化とその病理ー』を読んだ。
 山口源治郎さんがすすめていた本である。

 表紙カバー折り返し部にある宣伝文句を写しておこう。
 
 のどかな地方は幻想でしかない!
  地方はいまや固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ、全国一律の「ファスト風土」的大衆消費社会となった。
  このファスト風土化が、昔からのコミュニティや街並みを崩壊させ、人々の生活、家族のあり方、人間関係のあり方をことごとく変質させ、ひいては人々の心をも変容させたのではないか。
  昨今、地方で頻発する不可解な犯罪の現場をフィールドワークしつつ、情報社会化・階級社会化の波にさらされる地方の実情を社会調査をもとに探り、ファスト風土化がもたらす現代日本の病理を解き明かす!

 これは、洋泉社の新書y中の一冊 シリーズナンバー119とある。

 もうわたしは、図書館員の現役ではとても勤まらないと思った。この新書名を聞いて。そのブックデザインがまったく頭に浮かばなかったからである。「新書」の数が、雨後の筍のように現れているのは事実だが、プロなら、その顔くらいは知っておかなくては恥ずかしい。
 その恥ずかしい思いをさせてくれた本書、内容は、まあ、上の宣伝文句にあるとおりで、その文句に売らんかなのウソは目立たない。
 著者は、情報誌の編集長をしていた経験があるとのこと。雑誌掲載記事が基になっていること。
良くも悪くも、それが、中身をつくっている。(著者ではなく、洋泉社編集者の仕事の可能性も十分あるが)
 章のタイトル 見出しが雑誌的といおうかアトラクティブであることと、読みやすいということ、これが、特徴でしょう。読んだあとの印象も、雑誌的、一応は読ませてくれたが、深さはない。そんな内容だった。

 でも、読んでおいていい本だとは思います。

  春嵐おさまりジルベルトを聴く
 

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世界を変えるお金の使い方

 パソコン持っても、幸福にはならない。
  が、便利にはなる。
 いろいろな情報が入りやすくなった。

 『世界を変えるお金の使い方』という本をメールで紹介された。
 いつも、有益な情報を下さる方に紹介されたのである。

 そこで、町の図書館に行って、探した。所蔵していなかった。
 この町の図書館は、ネットで、所蔵の有無がわからないが、この4月からわかるようになる。
 県内の主だった図書館の所蔵の有無はネットで直ぐわかるが、隣の市の図書館も所蔵していない。

 本屋さんにも行ってみたが、なかった。

 こういう場合、リクエストカードを最寄の図書館に出しておくと、購入、借用のどちらかで対応してくれる。
 図書館の「予約制度」といわれる制度で、1970年代に普及してきた制度だが、いまだに、全ての公共図書館で完全に実施されているわけではない。図書館法第17条に「図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」と規定しているのに、「予約した資料を拝借するので郵送費を出せ」というあきれた図書館もある。

 『世界を変えるお金の使い方』を購入しないで、『10日でラクラク一般常識』を購入したとする。
 『10日・・・』を読みたい人は無料で、『世界を・・・』を読みたい人は郵送料が必要だとすれば、何故、『世界を・・・』買わないで、『10日・・・』を買ったか、納税者に納得いくように説明できなくてはならない。万人を納得させる説明、いや、『世界を・・・』を予約した人、たった一人を納得させる説明もできないはずである。

 だから、郵送費をとる公立図書館には、いろいろな対抗策をとる必要がある。訴訟を起こせば、間違いなく勝つだろう。

 ただ、その17条自体をなくそうとする企みがある。憲法9条も憲法24条も教育基本法も、もちろん大切だが、図書館法17条も、国民の基本的な権利のひとつ、大切にしたい。
 
 『世界を変えるお金の使い方』の紹介そのものは、読んでないのでできないが、ネット上に1000件を超える紹介記事がある。そちらに譲る。

 春荒れに 雨戸繰る手の 危うさよ

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ある編集者の死

 スマトラ沖大地震による津波で何十万人もの尊い命が奪われた。
 知人等がその中にいなければ、大変申し訳ないが、どうしても、他人事になってしまう。
 事実、わたしは、もう過去の痛ましい出来事のひとつとして、処理しようとしていた。
 
 ところが、2月3日の役員会(既述)で、得た情報で変化した。
 あの大災害の日本人死亡者のなかに、米田佳代子という編集者がいたという情報です。

 知人でもなく、あったこともない人ですが、名前に記憶がある人でした。
 いつ、どこで、記憶したのか知らないというのが情けないのですが、とにかく、聞いたことのある人の名でした。

 役員会で話題になったということと、関連があるのだろうか?
 講演会か何かに招いたことがあるのか?
 役員のある方が主宰している家庭文庫の利用者だったのか?
 正解は、いま、はっきり出来ないが、なんらか地域的つながりがある編集者だったということにしておこう。

 児童文学や絵本の翻訳者 さくまゆみこさんのホームページ
 絵本作家 村上康成関連ホームページ(具体的に指摘できません。ネットサーフィン中にみつけた)によく出てくる編集者です。
 みなさんも書店や図書館で、彼女の手がけた本を見つけ、彼女の死を悼んでください。

 見つけ方を教えます。
 児童書のコーナーにいき、徳間書店の出版物を見つけてください。
 くまが扉をあけて手招きしてるようなロゴマークが目印です。(戸+くま=徳間)
 そして、著者のあとがきの最後の行付近に、米田佳代子の名があれば、それが彼女が手がけた本です。

 今日は、下手な俳句はつくりません。ただ、彼女の冥福を祈ります。
 

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中・高生のための学校図書館利用テキスト

 つい先ほど郵送されてきた本を紹介します。
 いつも貴重な情報をいただいているC.A.さんから送っていただきました。一か月くらい前に紹介され、ビビビッときたので入手して欲しいとお願いしておいたものです。思ったとおりの本でした。

 この本はタイトルのとおり、中学生や高校生に学校図書館利用法を教えるときのテキストです。よくできていますから、授業を受けなくても、図書館利用法がわかるし、情報収集方法もわかります。
 格好の図書館利用手引書として、一般の人にも十分使えます。

 札幌の高校勤務の3人の司書と中学勤務の1人の司書教諭、4人の共著で、A4,68頁。札幌市の㈱メディア・サポートの製作・発行です。
 よくまとまった内容、生徒のイラストをふくむ図版を多用した親しみやすい体裁で、図書館に勤めている人にもすすめたいと思いました。

 で、熟読もしてないのに、早速このblogに紹介記事を書こうと思ったのです。C.A.さんに感謝です。

 各所にほどよく置かれたCOLUMNも効いています。
 わたしが「よく忘れずに書いてくれた」と思ったのは「図書館はネットワーク」です。

 図書館は単独では成り立ち得ないという常識が常識になっていないのが、日本の図書館の不幸のひとつだけに生徒たちに教えてくださるのはとてもうれしい。

 褒め過ぎて「ちょうちん持ち」扱いされるとなんですから、嫌味をひとつ。表紙のタイトルと奥付のタイトルが違います。まあ、これも「こんな場合書名はどちらにしますか」と目録記入のいい勉強材料になりますが・・・

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時雨西行

 「江口の里の黄昏に・・・」聞いたことがあるような、ないような・・・
 謡曲なのか、長唄なのか
  一度も聞いたことがないくせに、元歌を再現させようと・・・

 有吉佐和子の『江口の里』を読んでいた。眠くてうつら、うつらしながら読んでいた。グノー神父が信者になろうとしている、でも芸者なので他の熱心すぎる信者たちの反対にあっている、そんな美しい女性の舞踊を見に来ている。彼女の踊りの演目が時雨西行。

 不思議な体験だった。半分眠りながら、本を読み、そこに出てくる場面を素養もないのに再現させようとする・・・
日はとっぷりと消えて小さな電気スタンドの明かりだけがあった。浄瑠璃なら少しは知った部分もあるが、謡曲や長唄はまったく知らないのに再現させようとする・・・それも半覚醒状態で・・・
 
 一、二分は眠ったのか、二、三秒だったのか。

 目覚めて気分は、爽快とはいわないが、確かにプラス方向の気分になっていた。

 『江口の里』の前後に、鈴木輝一郎の『幻術絵師、夢応のまぼろし』を読んだ。人間存在の深い部分まで、言辞だけであっても、描けているところがあって、そこが面白かった。初めて出会った小説家。別の作品を読みたいのか、読みたくないのか、まあ、暇なときに手にすれば読むだろうと思う。

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斎藤純著 『雨の日の来訪者』

 小説にも旬があるのであろうか。「ない」というのが、わたしの勝手な考えである。新刊書を書評や評判で読むということはまずない。数年たってから読む。天邪鬼なのだろう。乱読だが多読ではない。読むスピードが極端に遅いのもわたしの読書スタイルである。
 今回手にした本。著者の斎藤純、まったく知らないひと。書くジャンルもわからない。というより知らないから選んだのだ。図書館から本を借りるとき一冊はこういう選び方をする。当たり外れがあるのは当然だ。前回借りた鮎川哲也の仲間はひどい外れだった。今回は大当たり。短編連作というのか連作短編というのか知らないが「小説すばる」に1995年1月号から1997年4月号にかけて掲載されたもの。登場人物の同じ説明が繰り返されるのが単行本になったときの瑕になるのはしかたがないか。
 オートバイ雑誌の編集者とライターが主人公。 ライターの老人も中年の編集者もいい男だ。イケ面という意味ではない。生き方がいい男なのだ。こういう人物を創造した著者もまたいい男なのだろう。
 ジャンルはミステリになるのか、ならないのか、わからないが、内容の説明は止めておこうと思う。さて、この本を誰にすすめようか。鮎川哲也の仲間の一人、北陸の話を書いた方にはぜひ読んでいただきたい。そして文章の書き方を学んでいただきたい。あなた以下の文章しか書けないわたしがいうのもなんですが・・・

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