医者のいない病院

『旅の重さ』中で触れたことが、気にかかっていたのであろうか、昨夜、夢に出てきた。

「読みたい本のない図書館なんてなんとかを入れないコーヒーどころか、医者のいない病院みたいなものだ。」このセリフを吐いた人のことを思い出したのだ。夢の中で。
なんとかを入れないのなんとかは「クリープ」である。具体的な商品名なので、図書館報の中では「なんとか」としてごまかした。当時のテレビCMで、しょっちゅう流れていたフレーズである。「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」の・・・を埋める、そんな遊びだっか、CMの延長だったかがあったように記憶する。そこで、ネットで調べてみた。以下の引用は「一世を風靡したテレビCM 2」から。昭和48年(年代はぴったり一致)の欄

クリープを入れないコーヒーなんて・・・」と渋い中年の魅力、芦田伸介が暖炉でクリープ入りのコーヒーを飲む。他にも、「クリープを入れないコーヒーなんて・・・」を喩えるフレーズを各界の人に募集。例えば野球解説者の青田昇氏「ホームランの出ない試合のようですね。」大賞を取ったのは、「クリープを入れないコーヒーなんて、女性のいない世の中のようなもの。」ほかのサイトでは、手塚治虫の「風刺のないマンガのようなもの」を紹介していた。

そこで、私が「クリープを入れないコーヒーなんて、読みたい本のない図書館のようなもの」と言ったところ、「読みたい本のない図書館なんてクリ-プを入れないコーヒーどころか、医者のいない病院みたいなものだ」と強烈な図書館批判をした30歳前後の女性がいた。「子どもの本を読む会」の席上であった。その女性が、夢に出てきたのだ。姓も名も思い出した。夫の顔も、二人の息子の顔も、ついでに舅の顔も思い出した。彼女は、いわゆる転勤族で、ほかの図書館を使った経験があり、いま通う図書館の貧弱さに憤りさえ覚えていたのであろう。

さて、現在「読みたい本のない図書館なんて・・・」で、・・・を募集があったとしたら、あなたは、どうこたえるであろうか。

  夢果てて行き着くところ枯堤

  

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図書館とWEB書店

『風のささやきーしづ子絶唱』昨日読了。
この本は、記憶に間違いがなければ、3月3日に市立図書館にリクエストして、県立図書館から借りていただいた本である。市立図書館から連絡をいただき、5月6日に借り受けた。この間2ヶ月、このことは、このブログでも書いた。

また、ある明治初期の骨董屋を描いた小説を読んだのがきっかけで、木歩や鈴木しづ子という女流俳人に関心を持ったことも書いた。

人は、あることがきっかけで、知りたい項目が増えていくものである。その知的関心に応えてくれる社会的な装置が公共図書館なのだ。地元の図書館で知りたいことをカウンターで館員にお話すれば、適書を紹介してくれる。

適書を所蔵していないときには、購入したり、所蔵しているところから借り出したりしてくださる。図書館は、こんなに便利で、ありがたくて、役に立つところで、しかも無料である。無料であるのは義務教育が無料であるのと同じ原理による。貧富に拘わらず、すべての国民に自己学習機会を提供してくれるのだ。

今、私は、鈴木しづ子という俳人を知りたいと思っている。その関心は、図書館で借りて読んだ本から始まった。そして、すでに『凍てる指』『春雷』の2冊を図書館のおかげで読んでいた。「図書館ありがたきかな」である。

もう1冊どうしても読みたくなった。しづ子の第2句集『指環』だが、私の検索能力では県立図書館と国会図書館のOPACを検索してもヒットしない。古書店のそれにもヒットしない。ただ、国会図書館のOPAC情報から、収録書が分かった。これをリクエストしてもいいのだが、後2ヶ月はとても待てそうにもない。

そこでWEB書店を検索して見つけたので発注した。5月7日午前10時頃。5月9日午後受領。
わずか2日である。「WEB書店すばやきかな」である。

二ヶ月はあまりに長し若葉萌ゆ


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人に訊けない悩み

図書館は、いろいろな人のいろいろな課題を資料提供の形で解決するために存在する。
図書館司書は、そんな課題を持つ人と資料を具体的に結びつける援助をするためにいる。

課題のなかには、人に訊けない悩みの解消または軽減策がある。
有能な司書がいても、そんな人に訊きたくない種類の課題を抱えていらっしゃる方も大勢いらっしゃる。
病気・離婚その他いろいろ・・・。

その人たちのために、図書館側で、有効な方策をたてて実施していくことが大切だし、それを実施すること、できる力があるのが、プロの司書だということもできる。

今日は、別のブログでも紹介した「闘病記ライブラリー」を、こちらでも紹介したい。病気のことを、同じ病気を持ち闘っている人から、体験談を聞くことで、具体的な対処法や安心感を得ることがある。不幸中の幸いというのか、そこは、よくしたもので、いろいろな病気についての体験談をいろいろな方が本の形にしてくださっている。医者自身が、病気を知らないでいるケースもたくさんあるのだから、この種の本の存在は、ケースによれば、本当に大切になっている。

作家の夏樹静子さんの『椅子がこわい』、女優の松居一代さんが書いた『隆一の凄絶アトピー日記』、タレント奈美悦子さんの『死んでたまるか!』、生命科学者柳澤桂子さんの『認められぬ病』など、有名なかたの闘病記のほかにも、たくさん、たくさんある。

「闘病記ライブラリー」はインターネット上の専門図書館で、700冊ほどの蔵書しか、今は持っていないので、上の有名人の書いた本があるかないか、まだ、調べてはいないが、このような心配りを、「聞くに聞けない悩み」を持つ人たちにしていくことが大切だという実際例として紹介した。上の文字色の変わった部分をクリックして、一度見学してみてください。これを実施したのはNPOである。

これを一つの刺激として、多くの公共図書館で、地域の実情に応じた「聞くに聞けない悩み」を持つ人々への対策をとってくださるよう希望する。

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バスラの図書館員

新しく見聞したことを記憶する力を失う。
今までに蓄積した記憶を失う。
この両者が揃えば、個人史のレベルでは、その個人の崩壊を意味する。
(私は、いま、まさに、その過程を粛々と歩んでいるところで、この文のそこかしこに、その影響が現れていることだろうと思う)

その個人が文字を持たない民族の語り部的存在で、次期語り部への伝達がまだだったとすれば、その民族の記憶装置の消滅を意味し、やがて、その民族は、衰亡していくにちがいない。

記憶を記録に変換する方法を獲得した社会においては、記録媒体のコントロ-ルによって、他民族の支配を考える暴君が出現した。焚書や図書館破壊が、その具体例である。ナチスまで、遡らなくても、1993年代のサラエボでも起きている。(『サラエヴォ・ノート』ファン・ゴイティソーロ著 みすず書房を是非ご一読を)

図書館は、人類の記憶装置、時の権力者の意のままになっては、その存在意義を失う社会的機関なのであるが、そのことを我々は、自分たちでは自覚できないで、ナチスのゲッベルスなどに教わっているのだから、図書館という建築物破壊を伴わない、検閲類似行為とか言論出版規制とか学問の自由とかには、きわめて鈍感になってきているのではなかろうか。

イラクのバスラ中央図書館にアリア・ムハンマド・バクルという女性図書館員がいる。2003年春、イラク侵攻がバスラに達しようとしていた。バクルさんは、「図書館の本には、私たちの歴史が全部つまっている」として、30000冊の本を図書館から避難させた。その9日後図書館は、戦火に遭い焼失する。

この事実は、ニューヨークタイムズの2003年7月27日 (日曜日)号に報道されて注目を浴び、2冊の絵本になった。

1冊は和訳されて、この4月に出版された。『バスラの図書館員ーイラクで本当にあった話ー』絵と文 ジャネット・ウィンター 訳 長田弘 晶文社

もう1冊はAlia’s Mission:Saving the Books of Iraq,by Mark Alan Stamaty. Knopf Books for Young Readers,2004. ISBN0375832173である。

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資料提供が仕事である

四月一日です。
表面的には、いいニュースでも、その内実を知れば喜べないニュースがあります。
内実まで見通した記事を書いてくださいと記者に頼めないのですから、記者の責任ではないのですが・・・。

ある図書館の話です。
トイレが改装されて、赤ちゃんのオムツを交換するベッドが設けられました。誰からも変に思われない当然の改装です。ただ、改装費が予算になくて、資料購入費からの流用になったことには、誰も気付きません。
決算議会での細かいチェックがあれば、一応問題になるかも知れませんが、こんなチェックが行われることはありません。

特別コレクションの目録整理がおわり、冊子体の目録を発行することになり、予算要求をしました。予算はつきました。ただし、その分、資料購入費が減額されました。目録発行は誰も悪いことだとは思いませんから、これもまた、いいニュースの一つとして流れます。

図書館で、一番大切な仕事は、資料提供にあります。市民に出来る限り新鮮で幅広い資料を提供することが大切なのですが、昨今の財政悪化の抗しきれず、資料費減額が続いており、大変苦しい状況にあります。

その上、光熱費等の必要経費も最低限以下に押さえ込まれているので、重油や電気代の値上げがあれば、その経費として、絶対額の大きい資料購入費からの流用を考える、そんな逆転したものの考え方がまかりとおり始めて、数年が経過しました。

図書館という建物を維持運営するため、肝心かなめの資料購入費を削る。これは明らかにおかしい馬鹿げたことなのに市民利用者の誰にも、具体的な痛みとして伝わらない。そいう構造のなかに公立図書館がある。

図書館のことを、市民のどなたにも、本当にわかるように紹介し、その内実を伝えたい、このブログは、もともとは、そういう発想で始めたのですが、ほとんど毎日、その願いの中心から逸脱して、つまらない老いの繰言ばかりに終始しています。非力な私には、図書館のことを伝えることが、本当に難しいのです。

図書館のニュースに関心を寄せる人は、ごく少数、さらに、そのニュースの裏まで読み取ろうとする人は、もっともっと、ごく少数。
これが現実だとしても、蟷螂の斧よろしく向かっていく、その気力だけでも、なんとか、持ち続けていきたいと思うのですが・・・。風邪だといっては弱音を吐き、腰痛に悩み、指や腕の引きつりに怯え、昼食べた食事も覚えていない一介の耄碌爺に何ができるというのでありましょうか。

今日はエイプリルフールですが、私はエブリデイフールです。

 万愚節繰言いいし虚しさよ

 

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図書の廃棄

図書館の仕事には、外から見てはなかなか理解できないことがあるようだ。
例えば、図書の廃棄という仕事がそうである。

茨木のり子『言の葉さやげ』が廃棄本の中に入っていたとしよう。
茨木のり子ファンでなくても、ちょっとした本読みには、「何故こんな本を捨てるのか、本の値打ちもわからない、とんでもない図書館の暴挙」と取られかねない。こうしたケースは、ほとんどの図書館で、毎年のように発生している。

書庫に限りがあるから廃棄せざるを得ない。これ以外に、あまり積極的に廃棄する理由はみつからない。
だから、図書館員は、まず、図書館建設のときには、十分な開架スペース以外にも、書庫スペースの用意を要求するが、これがまず、金を工面する部門から理解されない。
満杯になり、その状況を訴えて、書庫の増設等を要求してみても、耳を貸してくれない。

やむなく廃棄することになる。かなり辛い仕事になる。

まず、県内の図書館と協力して、共同保存庫の設置を望むが、図書館トップが図書館の専門家ではなく、その上毎年のように替わっていく現状では、この仕事の重要性が県図書館協会等で理解され、実施に移されることは、極めてむずかしい。そこで、実務者会議等で、県内最低1冊の保存を申し合わせ、廃棄のときは、県内図書館の蔵書をチェックして、ほかが持ってないときには、廃棄しないか、県図書館に引き取ってもらう等の作業ができるシステムを作ろうとする。これさえ、トップの理解を得た上での協定になることは残念ながらない。出来る人がいる図書館だけが、やろうとするだけである。

この間、九州を旅行した。その時、宿泊した一つのホテルの一郭に木製の立派な書架があり、結構立派な本が並べられていて、落ち着いた雰囲気の魅力的な読書スペースが出来ていたので利用した。そこの蔵書のほとんどがホテルのある市の市立図書館の廃棄本であった。破れたり汚れたりしていない十分に立派な本で、旅行記や随筆や画集・写真集もあった。税金で購入したまだ十分に使える本を何故廃棄するのか、正直私もそう想った。これでは、納税者の理解は得られまいと・・・。でも、わたしは、その内情を知っているから、納税者の理解が少しでも得られるようにと、ここに駄文を書き連ねている。

古紙が高価であったころは、古紙業者が喜んで引き取ったので、廃棄本が市民の目に触れることはなかった。古紙が売れなくなると金を支払わないと業者も引き取らなくなる。そこで、廃棄図書の有効利用ということで、市民の目に触れることが多くなり、市民は図書館員の仕事を批判できるようになった。闇に葬られていた時代には、なんの批判もでなかった図書館の仕事が、資源の有効利用を図ろうとした図書館員がいた結果として、批判に晒されることとなったのだ。

一番の問題は、後世に伝えるべき蔵書の確保の大切さに気付かない人々が、図書館の運営をしている、つまり、専門家が運営していないことにある。そこに批判の目がいって当然なのに、そこまで行かない。本当に、知ることを愛し、本を愛する図書館の専門家が、ほとんど図書館で働いていない現状を批判していただきたい。(想いだけが先行して、酷い文章になってしまったが、もう書き直しはしない。冷静になりきれない)

 降る雪もやや暖かく日脚のぶ

 

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文学にあらわれた図書館 8

年末になってくると新聞などで「今年の決算」らしき企画が並ぶ。
毎日新聞の企画では、
 12月7日に、「この1年 10選」として、ミステリーと歴史・時代小説が西上心太と細谷正充という文芸評論家の選んだ10点が掲載された。選者のお二方、不勉強なのか、私は知らない。
 12月15日には、「この1年 文芸」として、松浦寿輝と川村湊のそれぞれが選んだ10選が載った。こちらの二人には、なじみがある。
 そして、今日12月18日は、日曜書評「今週の本棚」恒例の「この3冊」が載った。

 これらをひとつのガイドにして、図書館で、借りて読んでみようとしている。
既に12月7日分のミステリー10選の中から、数冊読んでみたが、ハズレが多い。選者と意見が合わないのだ。また図書館でも所蔵していない作品もあって、しかたなく、過去に評判になっていたが、読んでいない、(ベストセラーとか、評判の高い本は読んでいないことが圧倒的に多い)本を借りてきて読むことにした。

 それが、『秘密』(東野圭吾著)である。この中に図書館が登場してきたので、メモを残しておきたいと思う。

 作品は、映画化か、テレビドラマ化されているそうだ。バスの転落事故で、妻を失い、娘が植物人間になるという不幸のどん底にあった男に不思議な出来事がおきる。奇跡的に蘇生した娘が、妻の心と記憶を持っているのだ。
そこで、夫は、図書館に、その現象を調べに行く。

 37p
「建物は想像した以上に立派だった。しかも、新しい。なるほど自分たちが納めている税金は、こういうことに使われていたのかと、平介は改めて認識した。だがこれほど洒落た建物にする必要はないんじゃないか、とも思った。少なくとも、誰も見向きもしない中庭や、価値があるのかもよくわからないオブジェもどきの置き物は不要だろうと感じた。/図書館に入るのは、高校生の時以来だった。しかもあの時でさえ、目当ての本を探しに来たのではなく、エアコンのきいた自習室で友人と受験勉強をするのが目的だった。つまり平介としては、本来の目的のために図書館を訪れたのは初めてということになる。」

 と、作者は、公共図書館の本来の目的が、受験勉強ではなく、目当ての本を探すことにあるとしているようだ。
そして、係員に声をかけて、脳医学関係の書架に案内される。拾い読みしてみるが目的の本ではない。そこで、カウターの戻り、超常現象の本のコーナーを尋ね、そこで、一応の成果を得る。また、そこで、娘の担任の女性教師に出会ったりする、図書館内の様子が描かれている。

 超常現象の本の所在位置を図書館員が「娯楽本コーナーの奥」と紹介する、その「娯楽本コーナー」にちょっと、違和感を覚えたが、あとは、現在の図書館のありようが、そのまま描かれているように思った。三鷹か吉祥寺あたりの公共図書館になるが、平成8年ころの新築となるとモデルの図書館はどこだろうか?図書館は47pまでの10ページくらいで、後には登場しない。

 ミステリ作家の書く恋愛小説、読んで損したとは思わなかった。
 同じ作者の『容疑者Xの献身』 予約カード出しておこう。

  音もせで雪降り積むや午後の四時
 
 

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自転車で全国の図書館を

 自転車で全国の図書館を回っている青年の話に出会った。
 ネットで地方紙のWeb版を覗いていて、「岩手日報」で見つけた。

 愛知県の青年で、ふと手にとった写真集『百年の愚行』に衝撃を受け、この本を全国に広めよう、そのために全国の図書館を自転車で回って蔵書に加えてもらおうと、行動を開始した。

 今年1月14日に愛知を出発し静岡・神奈川・東京・埼玉・茨城から東北太平洋側を北上し、北海道を1周、現在東北の内陸部を南下中、宮城県に入ったところだろう。

 仕事を辞めて、自転車で日本一周、向こう見ずな若者の愚行ととる大人が多いかもしれない。訪ねられた図書館ではどのように応対しただろうか。

 わたしは、ただただ、この若者の行動力を凄いと思う。

 自転車で全国の公共図書館を全部回る夢は、なんどとなく抱いたことがあるが、ただの一度も、実行へと移そうとしたことのない私に比べ、なんと彼の行動は、すっきりとして気持ちがいいことだろう。生まれ変わったら、彼のように生きてみたいと思うが、多分何回生まれ変わっても、実行には移せまい。そのうじうじとした性質がわたしの本質だろうから。

  薄暮なか田に白鳥の初飛来
 

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ある集会に参加しました

 県南のある町の図書館関係団体に招かれていってまいりました。
 図書館のない町で、設置運動をなさっている団体の勉強会に参加したのです。

 雨、選挙、祭りの最中、悪条件が重なって参加者数は、すくなかったのでしたが、そのなかに3名の町会議員が参加されていたのには驚きました。よくお聞きすると町長さんもなんとか図書館を作りたいのですが、議会の大半は、そんな無駄な金を使う財政的な余裕はないということで、町の総合計画にものせられないという現状にあるようです。住民のなかに図書館をという要望がもう少し強くなれば、なんとかなりそうなのに、そうならない、そんな状況の中で、3人もの町会議員が勉強会に出席・・・、ちょっと不思議な気持ちが、いまでもしていますが、議員さんの参加はやはり有難く、心強い気がしました。

 初めての駅頭に立つ秋時雨

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文学にあらわれた図書館 7

 毎週金曜日にアップしようとしていたこのシリ-ズ(先週は腰痛騒ぎで完全忘却)、中断しなくてはならなくなった。それをきちんと認識できたのが、今日。まったく、めでたい話である。

 ノートにメモしていた数冊のミステリを除けば、シリーズ化の主力は、実は、児童書であったのだが、そのほとんどが、『図書館森時代』の第5章「絵本の中の図書館」に収録されているのに気がついたのだ。

 もちろん、この『図書館森時代』を手にしたとき、この章があることは分かっていた。ただ、それが、このブログのこのシリーズとバッティングしていることに気がつかないでいた。まったく、めでたい話である。

 『クレージー・マギーの伝説』『きょうりゅうが図書館にやってきた』『青い図書カード』『不思議を売る男』等々絵本でない児童書もあることにはあるが、絵本を抜きにするとシリ-ズ化するほどの準備はできていない。

 また、大人用も、ポケミスからとった数冊のリストから、日本の近・現代文学の樋口一葉・漱石・高見順・島尾敏雄・柳田国男・中野重治等々へと、児童書を取り上げている間に何とか文章にしていこうと考えていたのだが、準備は、きわめて不完全である。

 だから、中断することにした。いつ再開できるかは不確実で、先に寿命がくるかも知れないが、最低でもリストは残しておこうと思う。

 無花果の砂糖煮二つ食べにけり

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文学にあらわれた図書館 6

 今回は児童書を紹介する。先日紹介した『図書館森時代』の共著者草谷桂子さんの作品である。ついでながら、『図書館森時代』をとりあげたこのブログについての感想などが、メールで届いた。「数人が書いているので、なかには、とても認められないことを言ってる人もいる」と。そのメール子が指摘した部分は十分納得のいく指摘であった。が、誰が書いた何章の、この言説と特定して、ここには、紹介しない。そんな指摘がされるのは、何章のどこなのか、そんな気持ちを頭の片隅において、読んでいって欲しいと思う。

 今回とりあげたのは『さびしい時間のとなり』 草谷桂子著 ポプラ社 2000。サブタイトルに「けやき図書館物語」とあるように、けやきという名の公共図書館が舞台になっている。6篇のほぼ独立した作品をプロローグとエピローグで円環状に仕立てたかたちで、登場人物の主体は、児童生徒。それもなにか問題をかかえる子どもたちで、それを救う役を担うのが、図書館、つまり図書と図書館員なのである。1篇だけは学校図書館が舞台だが、そこの司書がけやき図書館長となることで、一貫性を保ったようだ。

 図書館機能のひとつに、無意識ではあっても、カウンセラー機能があるとする全体の図書館観は、「自殺したくなったら図書館へ行こう」に通じるのではないか。こういうふうに意識して図書館が見えていなかったので、勉強をさせていただいた。

 腰痛やまんじゅさげの赤に耐え
 

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『図書館森時代!』

 『図書館森時代!-人に役立ち、地域に貢献し、地球を救うー』という本を共著者のお一人からいただいたので紹介しようと思う。書評はまだ全部読んでいないのでできない。紹介して、読んでみようと思ってくだされば、それでいいと思う。

 「森」にはSINとルビめいた横文字がふられているから、書名は「としょかんしんじだい」でいいのだろう。(奥付でそれで間違いないことが確認できる) SINはSustainable Intelligence Network の頭文字をとったものでもあり、図書館が知の森であること、図書館が利用者、職員、ボランティアなど、すべての人が木となって森をつくっていることをも表しているらしい。もちろん「新時代」の掛詞でもある。たいへん凝ったタイトル名である。

 これは、1章、8章、おわりに/著者紹介を執筆した編者山本宣親氏が命名したのだろう。情熱の表現として受け取っておこうと思う。

 本の紹介は目次の転記で、ほとんどOKなのだが、本書は8章に「はじめに」「おわりに/著者紹介」がついており、その章の転記だけでも大変、それだけ、内容の豊富な、新しい味わいのする図書館関係書になっている。

 味わい、それは著者の個性重視から滲みでた味であり、全体的に洗練、上品、教科書的とは対極にある味わいで、熱くて、ボリュームのあるものとなっている。都会の一流レストランではなく、地方の市場にあるうまい食堂のそれである。荒汁の中に骨が混じっていて、いきなり食べると喉にささることもあろう。骨を丹念によりわけないと食べられない人がいるかもしれないが、私は、こちらのほうが好きである。

 柿落ちて三尋半ほど転がりぬ

 

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刑務所図書館

 図書館はすべての人に開かれているものだが、現実には、まだまだ一部の人のものに留まっている。旅行中にいろんな街道を走ったが、「図書館」という文字に接したのは、たった一度だけである。圧倒的大多数の国民が図書館を知らない生活をしている。それで、不便だとは思っていない。便利な図書館を知らないのだから、そう思うのは当然だろう。

 住民の近くにあって、住民の生活に役に立っている図書館が、多くなっていけば、図書館のない地域の人びとが黙っていないようになる。資源がない日本を支えるのは、知力しかない。そこを根本的に考えないから、図書館がないがしろにされる。図書館は、暇つぶしに読む本を提供するところではない。

 自己判断をし、自己決定をし、自己責任を果たして、生きて行くためには、公平に情報が提供されなくてはならない。そのための情報を提供するところが図書館なのだ。

 だから、刑務所にも図書館があってしかるべきなのだ。そんなことを考えさせられたのが網走監獄の教誨堂でみつけた展示品である。(下の写真クリックすると拡大)

P9220093

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文学にあらわれた図書館 5

 『パーティーガール』 リンダ・ハワード著 加藤洋子訳
     二見文庫  2002.3.25 (ザ・ミステリ・コレクション)
  
 前回の開き直り宣言のとおり、「この本には図書館のことが書かれている部分があります」という紹介以外の情報はあまりない。ただ、ただ、当時の「読書メモ」を書き写しただけのものである。メモは「書き抜き」だけである。

 p.20
 退屈。その言葉が思いがけず心にグサリときた。彼女をひと言で説明するとしたら、きっとだれもがその言葉を選ぶ。気が滅入ってきた。彼女の服装は地味ーつまり退屈、髪型も退屈なら顔つきも退屈。生き方そのものが退屈なのだ。34歳、ちっぽけな町の、めったにキスされることもない、オールドミスの図書館司書。日々の振舞いからしたら、八十四歳の老女と大差なかった。

 p27
 これでもいちおう図書館司書なのだ。調べ物にかけてはチャンピオン級だ。この世の神秘は、どこをどう掘り返せばいいのか知っていれば、すぐに解明だきる。

 p33
 ちっぽけな町の図書館司書では、館長といえどもたいした給料をもらっていない。館長とは立派な肩書きだが、中身はたいしたことないのだ。

 p43
 公共の場で働くこと、とくに図書館で働くことは、一種の技術だ。もちろん人びとには本を読んでもらいたいから、その気にさせなければならないが、それと同時に、図書館にも利用者にも敬意を払っていることを示さなければならない。

 p43
 「ヴァーチャル図書館に登録したいんだ」
  アラバマ州は、この分野で国全体をリードしている。州民ならだれでも、どの図書館でも登録することができて、何千もの新聞や雑誌、論文や百科事典、学術資料や医学専門誌などに、家にいながらにしてオンラインでアクセスできる。カテゴリーのいくつかは、特定の年齢の子どもたちを対象にしていて、教室での勉強や宿題だけでなく、広く興味をかきたてることにも役立っている。ほかの州にもヴァーチャル図書館はあるが、アラバマのものが抜きんでて充実していた。

 p49
 町役場は二階建ての黄色い煉瓦造りの建物で、広場の一辺に建っている。その両脇には警察署と白い円柱のある図書館があった。

 以上、ミステリの舞台の説明部に図書館の記述がある。ということは、この図書館司書が、重要人物だったのだろう。(記憶が消えてる)まあ、ミステリの中身は、紹介しない方がベターなのでしょう。読んで損したということはない作品だっと思う。

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文学にあらわれた図書館 4

 「土曜日の本」 法月綸太郎著  『鮎川哲也と十三の謎’91』 鮎川哲也ほか著
                         東京創元社 1991.12. p121-p149所収
                        原題「鮎川哲也と五十円玉二十枚の謎・解答編Ⅰ」
                     『法月綸太郎の冒険』 法月綸太郎著
                         講談社 1992.11. p235-271所収

 わたしの、この「文学にあらわれた図書館シリーズ」は、自分で甘く見ても、とても読めるものになっていない。昔読んでメモしていたものを頼りに、いきなりキーボードに向かうものだから、何をどう伝えるかの自覚のない、足場もないし、視点もない、どうしようもないものになっている。
 そこで、「図書館が、この人のこういう作品に出てきますよ」という紹介が出来てればいいと、開き直ることにした。

 今回も法月綸太郎の作品で、一応図書館司書沢田穂波の登場する図書館シリーズ中の1作だが、番外編。そもそも、東京創元社の戸川編集長の発案で、問題編を若竹七海が書き、解答を何人かの推理作家が競作するという、企画に法月が参加したものである。

 中身は、紹介しない。ただ、作中の駄洒落を紹介しよう。ところどころ、正解を書かなかったので、遊んでみて欲しい。作者の遊びに付き合って遊ぶのは、つまらない人には、つまらないが、わたしは、十分遊ぶことができた。

 東京創伝社の凸川編集長→東京創元社の戸川編集長
 蟻塚ヴァリス 『元寇ゲーム』→有栖川有栖『月光ゲーム』
          『古都パズル』        『孤島パズル』
          『マジック三井寺』      『???????』
 鎧帷子 『鬼面銃』→依井貴裕 『記念樹』    
 雨降地固丸 『任侠は小太刀で勝負する』→我孫子武丸『人形はこたつで推理する』
         『殺陣映画』                  『探偵映画』
 白胸猟色 『翔ぶ女堕ちる女』→白峰良介 『飛ぶ男堕ちる女』
 時村薫 『火天(アグニ)の花』→???『秋の花』
      『空と梵(ブラフマー)』→     『空飛ぶ馬』
      『夜の禅』→          『???』
 泪橋幸 『いさ子の友はミトコンドリア』→沢木喬 『いさ言問はむ都鳥』
 原子量 『そして重力は衰える』→原尞『????????』
      『私が殺したシュードラ』→   『???????』

   人恋えば夕蜩の細き声

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柳田邦男がすすめた絵本

 自分のためのメモで恐れ入る。参考にしてくださる方が一人でもおられることを期待する。福島でのフォーラムのメモ整理である。整理といっても、分類なしの単なる羅列に過ぎないのが、情けない。
 
 『だくちる だくちる』阪田寛夫/文・長新太/絵 福音館書店
 『はっぴぃさん』 荒井良二/作 偕成社
 『くまのこうちょうせんせい』 こんのひとみ作 いもとようこ絵 金の星社
 『1000の風 1000のチェロ』 いせひでこ文/絵 偕成社
 『わすれられないおくりもの』 スーザン・バーレイ作/絵 小川仁央やく 評論社
 『ありがとう ともだち』 内田麟太郎/作 降矢なな/絵 偕成社
 『そらとぶアヒル』 内田麟太郎/作 長新太/絵 童心社
 『ぼくのいのち』 細谷亮太/作 永井泰子/絵 岩崎書店
 『おにいちゃんがいてよかった』 細谷亮太/作 永井泰子/絵 岩崎書店
 『チャーリー・ブラウンなぜなんだい?』 チャールズ・M・シュルツ作 細谷亮太やく 岩崎書店

  蟻集る蝉の骸や秋の風

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加美町中新田図書館

写真のアップテストで、無内容ですみません。

P8280017 左の写真はクリックすると大きくなります。

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読書フォーラム報告 その5

 このシリーズ最後の報告である。パソコンに向かうのに食傷しているので、いつも以上のひどい報告になるかも知れない。

 シンボジウム「いのちを応援する図書館~患者図書館~」
        作家 柳田邦男 日本病院患者図書館協会会長 菊地佑 東京大学教授 秋田喜代美

 秋田さんの司会で、日本初の本格的患者図書館 静岡県立静岡がんセンターの「あすなろ図書館」での実践を菊地さんが語り、徳島大学と室蘭の病院でのサービスなどの豊富な事例と聖路加病院の細谷医師の活動を柳田さんが付け加えた内容のあるすばらしいシンポになった。なかでも、講演のときと違い、柳田さんの話は、実に面白く(笑えるという意味ではない)、示唆に富むもので、彼が病院患者図書館にこれほどの知識と見識を持っていることに驚きまた、頼もしく思った。
 ふたりともスライドを使った報告でよかった。コンピュータとプリンターを直結した場面を映し出していたが、著作権問題にはいささかくらいのではないのだろうか。ただ、著作権保護を強調するだけでは、世の中、うまく行かないのは必定、事実として、押し切っていく腹があってのことなら、腰抜けの私の出る幕ではない。
 細谷医師のかかわった絵本はぜひこの手にとって見たいと、そのときは、強く思ったのだが、その書名調査も忘れてる私の耄碌の進行は、入院病院に図書館サービスが及ぶのを待つわけにはいかないようだ。

 蝉のなく林はすでに日陰なり

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文学にあらわれた図書館 3

 パソコンのリカバリーに失敗したりして、この二日間ずっとパソコンにかじりつき、完全に嫌になっている。イライラ、肩こり、眼精疲労、腰痛とさんざんなめにあっている。

 金曜日は、「文学にあらわれた図書館」をアップすることにしているが、ふつうの状態でもひどい記事しか書けないでいる。そこで、今日は、ただ、作品だけを紹介するだけという、もっともつまらない内容の記事になるが、現状では、やむをえないと、開き直っている。

 『緑の扉は危険』 法月綸太郎著 『小説NON』1991年5月号初出     『法月綸太郎の冒険』 講談社文庫 1995収録           

   さきに紹介したのと同じコンビによる図書館シリーズで、密室もの。登場する小説家の名前が、実在する作家の本名をもじったりしているので、読書人には、結構楽しめる。                      

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読書フォーラム報告 その4

二日目 講演『絵本で開く豊かな生、豊かな死」 柳田邦男

 初日は、録音はするなという主催者注意があったが、写真撮影についての注意は、なかった。二日目はあった。上原まりが登場するからかなと思った。柳田氏ご自身は、講演中に使ったスライドをみても、それほど著作権や肖像権に格別うるさいようにはみえないから、やはり上原さんへの配慮であろう。 昨日の分科会のスペイン報告には、折角、プロジェクターを使った報告なのに、文字ばかりで写真はなかった。肖像権にうるさいので、一切人物が入った写真は撮れないようであった。権利がきちんと守られるのはいいことだが、文化全体をどう進め、高めていこうかという配慮を無視すると嫌な世の中になるのではなかろうか。

 柳田氏の講演の中身は、彼のいくつかの著作で、例えば、『砂漠でみつけた一冊の絵本』『はじまりの記憶』などで、繰り返し述べられているので、中途半端な報告はやめて、そちらをお読みいただきたい。読んで損はしない内容なのは保障する。

 ミーハー情報が、この報告の唯一の内容になってしまったが『はじまりの記憶』というduo形式の面白い出版物を創り上げたお二人がいつのまにか結婚していたこと、これが、わたしが得た最大の新知識であった。誰って?柳田邦男と伊勢英子。

 ざわめきも息遣いも消え虫の声

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読書フォーラム報告 その3

P8190012  分科会は「読書へのアニマシオンースペインからの報告」に出席した。どんなものか判らないから、判ろうと思い出席した。

 どうやら読書への関心をゲームのようなパフォーマンスで高めようとするものらしい。一冊の本を大勢で読み、ゲームのようないくつかの作戦で、その本の内容を思い出していくような試みらしい。したがって、本の内容にふさわしい作戦がある。そこでアニマドール(アニマシオンを行う人をこう呼ぶらしい)は、いくつもの作戦に習熟しておく必要があるらしい。

 全体的な印象としては、この技術というのかどうか分からないが、アニマシオンは、教師が教室で行うのにふさわしい技術のようだ。予め決められた本を読んでいなくてはならないこと、ゲームに参加する子どものことを知っていた方が有効なことがあるからだ。

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読書フォーラム報告 その2

 これは図書館の話ではなく、「授業の仕方」についての、現職の教師の話なので、詳しくは報告しないが、一番熱のこもった講演であった。「いのちのリレーを伝える」と題して、金沢市の金森俊朗という先生が話した。著作もある方なので、そちらで報告の至らなさを補って欲しい。ここでは、ポイントを二つだけをメモしておこうと思う。

 ひとつは、「学校の授業の多くは、先生がピッチャーで、生徒がキャッチャーになっている。これは、ある面ではやむを得ないが、キャッチャーの出すサインをほとんどのピッチャーが無視しているのは由々しき問題である」という指摘だ。生徒が、今、どういう状態で、何に傷つき、何を求めているのか、一切構わず、監督の指示だけを守って、投げ続けるだけのピッチャーばかり、せめて、家庭では、両親は子どもの心を受け止めるキャッチャーになって欲しい。聞く耳を持って欲しい。聞く耳のあるところでしか、生きた言葉は生まれない。

 ふたつめは、「子どものセンス・オブ・ワンダーを大切にしよう」という指摘だ。好奇心を育てていくことが大切。ほとんどの、教師や親は、それをつぶしていて、反省がない。好奇心が育てば、「本を読みたくなり、調べたくなる。そして、調べたことを伝えたくなる」これが、普通の子どもの普通の姿なのである。

 西日さけ老いた夫婦が休みおり

 

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読書フォーラム報告 その1

 福島市で開かれた第8回読書コミュニティーフォーラム全国大会から、いくつかの主観的な報告をしたいと思う。

 まず、全体的な印象から報告する。二日間10時から17時まで計14時間びっしりと詰まったスケジュールで、中身も濃くて、退屈はしなかったが、主宰者が、ほぼ、すべてのステージに顔を出し、これまでの苦労話や運営の大変さをお話くださったが、彼が一番大変だっただろうと思う。誰かに任せて、その間休養をとるなどできない性格らしく、ご苦労さんといいたい。

 第1ステージ。鼎談「子どものいのちを育み、未来をひらく読書」には、詩人の長田弘さん 作家の今泉正顕さんと主宰者の庄司一幸さんが登壇した。

 長田さんのお話は、読んだことのある彼の著作で、知っていたことを復習させていただくことになった。一冊の著作も読んだことのない今泉さんのお話は、いい意味で、裏切ってくれた。大変篤実な方のようである。

 重要な指摘だと思ったのは、長田氏の指摘。世界の大学案内には、そこの図書館の蔵書数が載っている。蔵書数の多い順に大学を並べていき、その大学の有用性とどのような相関関係があるのか、調べてみた。その結果みごとなくらいに比例していることに気がついた。1万冊のいい本があれば、いいのではない。何十万冊の読まない本がなくては駄目なのだ。「図書館には読まれない本もなくてはならないのである」という指摘だ。もちろん、詩人独特の表現かも知れないが、背文字だけを見るだけでも、読んだと同じ効能を持つこともありうるという話は、最初は、そんな馬鹿なと思っていたが、最後には、十分納得がいった話だった。                               

 長茄子の細さを指で測りけり

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文学にあらわれた図書館 2

 『切り裂き魔』 法月綸太郎著 「コットン」 1990年4月号初出 『法月綸太郎の冒険』 講談社文庫に収録 1995年

 前回取り上げた作品は謎解きも図書館員がしたが、今回は、探偵小説家と図書館員沢田穂波がコンビ。著者が、著者名そのままで登場する。自分をモデルにした、といって私小説ではない。図書館を舞台にしたミステリ短篇。舞台の図書館は区立図書館、おそらく東京の区立。

 事件は「切り裂き魔」といっても、おどろおどろしい殺人事件ではない。何冊もの本の扉が切り取られるという事件。犯人をコンピュータの貸出記録から割り出すという、むしろ、図書館員としては、この方法に肝を冷やす。貸出記録は、裁判所の令状なしに、第3者に開示されることはありえないからだ。この種の図書館の実情を知らない、安直な創作態度には腹が立つが、作家法月氏は、安直ではなく、かなり気を配ってはいるが、結果としては駄目である。そのことに法月氏も気付き、文庫本のあとがきに「図書館の自由をめぐって」を書いている。わたしとしては、是非この文章を読んでいただきたいと思う。

 

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専門職のいる学校図書館

 8月11日に聞いた講演のレポートを書こうと思う。ただ、メモもとらず、帰りにビールを飲みすぎたので、まともな報告書にはならない。

 学校図書館は、法制上、公共図書館とは違い、義務設置になっている。だから、日本国民はほとんどの人が学校図書館を利用した経験があることになっている。少なくとも学校図書館法ができた昭和28年に小学生だった人からは、100%利用した経験があるはずである。ところが、あまりにも、その学校図書館が、28年当時だけでなく、それから数十年もの間、おそろしいほど貧弱な存在だったので、学校図書館を利用した経験が、大半の国民には、思い出そうにも、思い出せないのである。やっと、思い出せても、古い本が並ぶ、薄暗い倉庫のようなところだった、くらいの印象なのである。最近になってわずかに明るい兆しがみえてきたが、それもまだ本の並んだ読書施設くらいの存在で、子どもたちが、「ものごとを調べ、発見し、わかることの面白さを知る場所」には、全然なっていないのだ。

 だから、為政者たちの図書館観は、受験勉強部屋か読み物を読むところくらいの印象が基本にあって、図書館が生きるために必要不可欠な情報を入手するところには、なっていないのである。図書館資料を使って、起業し、成功者となって、その成功者たちがまた、図書館を支援していく、アメリカなどの図書館観とは、あまりにも違いすぎる現実がある。その根本原因は、学校図書館の貧弱さにあると私は思っている。

 最近の図書館を支援する政治家たちの多くは、まだ、活字を読む能力が、学問の基本にあるくらいの認識で、読書施設としての図書館支援に止まっているようだ。そこから、もう一歩進めた図書館観、すべての国民が、すべての情報にアクセスし、処理し、生活する社会的インフラとしての図書館ネットワークの構築を基本にすえた図書館政策を、こんどの文字・活字文化振興法そのものとして欲しかったが・・・。

 さて講演の講師は、40年前同じキャンパスにいて顔見知りの岡山市の中学校司書。専門職が全ての学校に常駐する岡山市の学校図書館の活動の紹介が講演の内容。普通のことを普通にしているだけなのだが、日本のほかの地域からは、羨望の眼で見られたりする現実の貧しさに改めて気がつく講演となった。

 参加者が、主催者の予想を超えて、広範囲から集まってくれたようで、学校図書館の基本の基を知り、実践していこうとする人々が増えてくだされば、嬉しい。

 青柿の落ちて転げる庭となり

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文学にあらわれた図書館 1

『れんげ野原のまんなかで』 森谷明子著 東京創元社 2005.2.28.

 連作短篇ミステリっていう範疇に入るのだろうか。5話から成り立っている小説で、秋葉市立秋葉図書館(秋葉市立中央図書館があり、北部分館という設定)が舞台、新米司書の文子が話の進行役、先輩司書の能勢が謎解き役となって、図書館で発生する事件を解決していくスタイルになっている。事件といっても強盗とか殺人があるわけではない、北村薫に先行作品がある、日常の謎解き、それが、図書館で起こるだけに、いくつもの具体的な書名が登場し、図書館の仕事のいくつかが紹介されていて面白い。

 その描かれる図書館も司書の仕事も、変な誤解もなく、ほぼ等身大の現在の図書館が正確に描写されているといってよいだろう。多分、作者は、図書館で働いた経験があるに違いない。第1話は『クローディアの秘密』、第2話は洋書絵本群、第5話は『床下の小人たち』がないと成り立たない。第3話には『南方熊楠全集』や、第4話には『北越雪譜』等が登場するが、これは枝葉の部分である。第3話の幹になる「シリーズ日本の美術」とその各巻書名がすべて架空のものなのには驚いた。いかにもありそうで、実際には存在しない書名をよく考えたものだ。第5話の『床下の小人たち』は岩波少年少女文学全集の第10巻で1961年初版で巻書名は「床下の小人たち 野に出た小人たち」と若干不正確なのは愛敬かと思う。

 ただ、どうしても、見逃せないのが229頁にある場面、文子がほのかな恋心を寄せる先輩能勢の夫人から昔読んだ本の(おそらく冒頭部分)1節を聞き、その本を書架から持ってきて提供する場面がある。これは専門家、司書の腕の見せ所で、カウンターは誰でもできると思われがちなだけに、こういう場面を書いていただいて、大変ありがたいのであるが、このヒロインが富豪でタフなお嬢さんで「彼女はしっかり張った顎を砕かれたら、最高の整形外科医に治療させるだろう。それからまた顎を突き出して次の困難に挑んでいくだろう」という1節を聞き、古びた黄色い表紙の文庫本を提供するのだが、これが、あまりにもマニアック過ぎるのではなかろうか。経験ある司書ならすくなくとも50%位の人が正解できる設定にして欲しかった。これにはベテラン司書のこの私もお手上げだった。おそらく創元推理文庫あたりの一冊なのだろうと思うが、現物を手にする幸運を得なければ正答できないのでは困ったものである。

 それとも、やっぱり、私が駄目司書なのか。

 

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文学にあらわれた図書館 0.1

 このシリーズが、一向に始まらない。『れんげ野原のまんなかで』のなぞが解けないからだが、こうしていたら、いつまでもスタートしそうもないから、なぞが解けなくても、来週の金曜日からスタートさせると自分に言い聞かせる、そのために、この0.1を設けた。

 現在の図書館を「無料貸し本屋」と悪口をいう人も、なるほど、そういわれてもしょうがないところもあるかなとど思う人もいる。私のなかでも、それは、それで、致し方ないかと思う部分と決してそうではないと思う部分が混在しているように思う。このブログは、つまらない日常の身辺雑記で終始しているが、底の底には、図書館の本当の姿をお知らせして、図書館への関心と理解を深めていただけるように、なんらかのメッセージを発信していきたいと思いがある。ただ、そのための話題の見つけ方を知らないし、もう現場を持ってないという弱点があって、思いの1%も達成できていない嫌いがある。そこで、こんなシリーズを無理やりスタートさせて、その中で、何かが伝えられたらいいのではないかと思っている。

 さて、その解けないなぞの部分は、「図書館の貸出」の中にさりげなく、日常的に、そっと置かれる図書館業務の専門性に関わる問題なのである。詳細は次回に明らかにすることになると思うが、一冊の本を貸出す行為の中に、「利用者の求める資料を探し出して、提供する」という図書館員の仕事がある。その「求める資料が存在しない」とき程難しいことはないのだが、これが、実際には、かなりある。探せないという能力不足と探す方法が見つからないという技術力不足のほかに、もともと、その「本の存在自体がフィクション」ということがある。具体例は忘れたがファンタジーの中に置かれた主人公が大きな影響を受けた本が実は作家のフィクションだったということが何回かあった。これをお客様に納得していただくのが難しいのだが、この「不存在の証明」ほど、図書館員にとって厄介なことはない。お客様の「知りたいこと、調べたいこと」に出来る限り援助の手を差し伸べ、解決できるようにするために図書館員はいるのだから、「不存在は未解決」と同じに受け取られるのが、苦しいほど辛いのだ。『れんげ野原のまんなかで』果たして、何が起こったか?次回を乞うご期待。

 炎熱の国の便りを遠ざけり

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文学にあらわれた図書館 0

 このブログ、いつの間にか、図書館関係のブログとして紹介されている。くだらない身辺雑記がメインで、こういう紹介をされると、わたしの責任ではないのだが、何故か、申し訳ないような気がするときがある。そこで、1週間に1回くらいは図書館ネタを登場させたいと思い、少しばかり材料探しをし、「文学にあらわれた図書館」を登場させようと思うようになった。「映画にあらわれた図書館」は飯島さんの労作をはじめ、雑誌の記事などでしばしば目にするが「小説の中の図書館」は意外に少ないので、「茶飲み話」などの材料にでもしてくれればと思う。

 その第一番目に森谷明子著の『れんげ野原のまんなかで』をとりあげようと、図書館にリクエストを出し、貸出を受けた。ミステリとしての出来は、日光の少し前くらいだが、図書館の舞台裏は図書館でアルバイトした経験があるなと思うほど、よく書けている。そして、いくつか、図書館員への挑戦ともとれる仕掛けが見て取れる。その中に残念ながら、わたしにも解けないところがある。それを解かないでいては、この作品を登場させるわけにはいかない。したがって、今日は、その序章としておこう。

 絹莢にかけし生姜の香りかな

 

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三度目でした

 間がわるいときがあるものだ。今日は三回図書館に足を運んだ。朝9時半過ぎ返却本を持って、図書館に、いくつかの疑問を解決しに行った。市立図書館になって間もない図書館の蔵書では、いかんともしがたく、解決できなかった。これでは、本当は困るのだが、子どもの利用者が大勢いて賑わっているので、それでよしとしてきたのだろう。

 二度目は昼食後に行って、ちょっと新聞をみた。実は待ち合わせの時間待ちをしただけで、わざわざ足を運んだわけではない。帰ってみると留守電が入っていた。さっきまでいた図書館からである。リクエスト本が用意できたという連絡であった。

 おそらく、リクエストした本の返却後ただちに連絡してくれたのだろうが、春先のリクエストのときは、日曜日の閉館10分後に連絡をくれたときがある。20分早ければ借りられたのだ。月曜は休館だから、連絡いただいたのはありがたいが、火曜日まで、待たされる辛さを知って欲しいといっても、それは、こちらの我儘なのだろう。そういう巡り合わせだったというだけのことなのだ。三度目の図書館行き。リクエストをとりに行って、コンピュータのリクエスト処理システムを質問してみた。リクエストをしている人が返却したとき、そのリクエストをしている事実、そのリクエスト本が用意できていたら、その事実が、画面でわかるのですよねと質問したのである。すると、驚いたことに、「わかりません。貸出券をスキャンしたときにわかるのです」との回答。おもわず「どこのシステムです??」と訊いていた。アルバイトのカウンター当番に訊いてわかる質問ではなかった。

 だとすれば、朝早く、返却だけして帰ってきたとき、1冊でも借りていれば、もしかして、リクエスト本があったのがわかったかも知れない。それにしても、理解しずらい変なシステムであることか。

 読みたきし本の軽さや夏の風

 

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図書館はふと立ち寄り施設

 わたしなど古い人間は、図書館は静かな公園の中などにあるべきものだと思っていた。学生の勉強部屋なのだから、静かなところという発想である。事実勤めた図書館も街のなかから外れた閑静なところにあった。

 それが、いつのころからか、図書館は大勢の住民の生活動線上にあるべきだといわれるようになって、駅前とかに作られるようになった。車社会になって、買い物にも車を利用するの人が多くなった現在では、駐車場が広くとれるところに図書館を建設すべきだという主張もされるようになって来ている。

 子どもからお年よりまでおおくの人が日常的に利用できるところに図書館をという要求は、図書館を目指していく人だけでなく、「あら、こんなところに、本がたくさんある建物が、本屋さんではないようだが・・・」とふと立ち寄る、今まで図書館と無縁であった人たちにも気軽に入ってくださる、そんなところに建てて欲しいという要求でもある。

 今日わたしは、温泉に行ってきた。いい身分である。帰りに、奥方さま