俳人 鈴木しづ子 Appendixes

Appendix 1 東京

この前の土曜日大急ぎで東京へ、往復した。
楽しい旅ではなかった。
その間の不毛な時間を「鈴木しづ子」で埋めた。
わざわざ「補遺」として、1項目あげることもないのだが、
東京生れの東京育ちのしづ子が、東京をどう思っていたのか、考えていたので・・・。
往復の車中、群木鮎子こと、鈴木しづ子の底知れぬ孤独感にシンクロしようとしていた。

東京と生死をちかふ盛夏かな       『春雷』
    大空襲のときも東京を離れなかったしづ子が、岐阜へ行った。

柿秋葉東京ことば愛でられて       『指環』
    岐阜へ来たのは母の墓を建てるためとはいうが・・・。

  わが不幸東京に見し冬の蝶       「樹海」  
    東京には 悲しい過去が。

 星凍てたり東京に棲む理由なし      『指環』
    東京に住んでももういいことはなさそうで。

  拭ぐう雨東京の土踏むことなし 「樹海」
    もう二度と東京には足を踏み入れまい。

Appendix 2 参考資料

1 『春雷ー鈴木しづ子處女句集』 羽生書房 昭和21年2月10日発行  原本を所蔵する図書館がかなりある
2 『指環』 随筆社 昭和27年1月1日発行                  原本所蔵館見つかっていない
3 『現代100名句集第6巻』 東京四季出版 2004.11.1.          『指環』所収 p147-160
4 『女流俳句集成 全一巻』 立風書房 1999               宇多喜代子が『春雷』『指環』から選句
    原本から採ったと思われる顔写真あり
5 「樹海」月刊 川崎 樹海社 国立国会図書館所蔵3巻5号-12巻2号 欠(3巻7号~4巻1号、4巻4号~12号)
6 「餐燈」月刊 札幌 餐燈発行所 1952-    北海道立図書館所蔵 No.13,17,18,20,21 群木鮎子散見
<1>「樹海」昭和23年7月号                        「体内に君が血流る正座に耐ふ」の自解
<2>石田小坡:「指環の世界 鈴木しづ子断想」            「アカシヤ」昭和27年5月号
<3>神田秀夫: (タイトル不詳)                       「樹海」昭和27年6月号
<4>高柳重信:(書評指環)                        「薔薇」創刊号昭和27年8月号
<5>河野喜雄:句集『指環』に就て                    「俳句新潮」第10号
<6>『愛と人生の俳句』金子昌煕著 洋々社 昭和49年          しづ子評価に誤解があるか?
<7>川村宣有貴:鈴木しづ子追跡   「俳句空間」12号-21号 弘栄堂  国会所蔵
<8>『折々のうた第八集』大岡信著 岩波書店 1990.2.(岩波新書)       
<9>水引幸大:春雷の聞こえる午後ー性を謳った女流俳人鈴木しづ子について
「魔王2号」書肆不死者画報 2003.5.30. 
<10>『名句鑑賞読本 藍の巻』行方克巳・西村和子著 角川書店 2005.6
(1)『凍てる指』江宮隆之著 河出書房新社 1992.4
(2)『風のささやきーしづ子絶唱』 河出書房新社 2004.4.
(3)『脱力の人』正津勉著 河出書房新社 2005.8.
[1] 大井恒行
     参考資料も(2)『風のささやきーしづ子絶唱』 河出書房新社 2004.4によるものが多い。
                                           俳人 鈴木しづ子 完

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俳人 鈴木しづ子 その9

昭和27年11月に岐阜から姿を消したしづ子がいた。
小樽にいた。
そう江宮は言う。
江宮に教えたのは、札幌の俳人山田緑光。ただ、姿を確認した人は誰もいない。
彼女の俳句が、別人名、群木鮎子として残っただけである。

札幌の句誌『餐燈』昭和28年4月号に

 唇塗れば青空いぶし銀に昏る
 ひと恋し宵のルージュは濃くし出ず
 婚期過ぐ日の鬱々に慣れて着る

の3句が掲載された。選者は細谷源二だという。以降3ヶ月休んで28年8月号から翌年2月号まで毎月、2ヶ月休んで、また2ヶ月群木の句がみえる。以下各号からの抜粋してみる。『風のささやき』による。ここには全句がある。

 昭和28年8月号

 青葉風手管の口説聞きながす
 生理日のタンゴいつまでも踊らねばならぬ
 恋の夢わたしは匂うものさえない

 昭和28年9月号

 ひとに手をあづけて心盗みおり
 花火消ゆ純潔とおき日の果てに
 厨にて老いる女となるのはいや

 昭和28年10月号

 夫ならぬ人の唇あまし夜の新樹
 生きようと化粧私をなくし出ず
 花活ければ孤独の相やりきれず

 昭和28年11月号

 死ぬという男の錢や得て生くる
 身を揉じて燃ゆる夫ほし夜がかぶさる
 娼婦と違う夜の灯の暗さ撥ねかえす

 昭和28年12月号

 慄然と病めば死ぬ身と決めてひとり
 女とは妥協なき暗さ今日も昏れぬ
 たなごころかえす男が去りみぞれ

 昭和29年1月号

 活け花のふるう寒夜や人恋う膚
 文学とおしここに陥ちゆくひとりのおんな
 眉かきてジルバはさびしき男に充つ

 昭和29年2月号

 金欲しと屈しゐてこころがくぜんと
 夫なしに風の寒暮の切れて重いし
 痴戯に雪がくぜんと私をとりもどす

 昭和29年5月号

 このわたをつまむ伏目やわれに楔
 芽木の空身をいとしめと云う人なし
 春塵や恋する資格を見失う

 昭和29年6月号

 春海の朱魚ともならでか飢ゆる女か
 柔軟に夜の精液を吸ひ上げる
 春夜まづしき汽笛がなりて痴話さ中

 この6月号に山田緑光の「俳句のエロティシズムー群木鮎子の作品ー」が掲載されている。ここで彼は、鈴木しづ子と群木鮎子は同一人物ではないかと指摘。以後鮎子の句が消えた。

 江宮、山田の両先達と同じく、私も鈴木しづ子と群木鮎子は同じ人だと思う。100%そう思う。
 そうして しづ子は完全に消え去ってしまった。孤独感に満ちたこれらの句々が彼女の絶唱となる。

 


 


 

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俳人 鈴木しづ子 その8

しづ子は岡本製作所で製図工として働き、そこが軍需工場化されてくると生産現場にたち油まみれで働いた。
戦後焼け残った工場がGHQに接収されると、職場を府中の東芝工場に変更した。
住いは、いずれも会社の寮であった。昭和21年2月『春雷』出版。昭和21年5月15日母綾子没。

東芝府中を同僚との結婚を機に退職。約1年ほどで離婚。結婚前には、別の大学生の恋人がいて、二人の間でかなりこころが揺れていたらしい。この頃の句に俗に「情痴俳句」と呼ばれるような句がある。結婚式は昭和23年12月3日。

離婚後、愛知県犬山市の叔母を訪ね、岐阜市でダンサーとして働き、すぐに米軍キャンプ岐阜がある那加に移住して、ダンサーを続ける。この頃の句に俗に「娼婦俳句」と呼ばれるような句がある。この那加でケリ-・クラッケと出会い、恋におちる。ケリ-の勧めもあって基地内でタイピストとして働く。昭和26年11月[29日}母の墓しづ子建立。昭和26年末、ケリー除隊帰国。間もなく交通事故死。昭和27年1月『指環』発行。同3月30日『指環』出版記念会。この句集の発行はしづ子の意志ではなく、師が彼女を励ますため。昭和27年秋しづ子那加を離れ以後行方不明。句作期間は昭和18年(1943)-昭和27年(1952)、24歳から33歳までの10年間である。(だがしかし、彼女はこの後にも登場する)

今回は、「情痴俳句」「娼婦俳句」と俗にいわれる句などを集めてみた。花鳥風月を詠う上品な人たちが、眉をひそめるようなことを題材にした。オリジナリティ溢れる句。赤裸々な自己をさらけ出す句。これらの表現が山本健吉氏のいう高次元の表現になっているのか、しかとは私にはわからないが、作家魂というものは確かに在る。

 性悲し夜更けの蜘蛛を殺しけり
 肉感に浸り浸るや熟れ石榴
 實石榴のかつと割れたる情痴かな
 まぐはひのしづかなるあめ居とりまく
 裸か身や股の血脈あをく引き
 情慾くや亂雲とみにかたち變へ

 花の夜や異國の兵と指睦び
 菊白し得たる代償ふところに
 娼婦またよきか熟れたる柿喰うぶ
 霙けり人より貰う錢の額
 遊郭へ此の道つづく月の照り
 ひまはりを植ゑて娼家の散在す
 夏草と溝の流れと娼婦の宿

 後半の娼婦云々は彼女のことではなく景色を詠った私は思う。「金を貰う」は、ダンサーとしてであろう。江宮さんの解釈と全く同じである。


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俳人 鈴木しづ子 番外編

今日は朝早くから、夜遅くまで外出したので、番外編です。
恥ずかしながら、しづ子の句で読み方がわからない句があります。
おしえてください。

 水襞の光げかげろふや柳の芽              『春雷』
 時刻捺印朝光げをまともなる               『春雷』
 朝光げや思慕うすれゆく夏装い             「樹海」昭和21年1月号
 たんたんと降る月光げよ玻璃きづつく          『指環』
 じれったく玻璃の月光げさへ疎む            『指環』

 「げ」は、接尾語 ケ(気)の濁音化したもの でしょうね。体言・形容詞の語幹や動詞の連用形について、推測される気配や様子を表す・・・。そうだとしても、すべて「光」に「げ」。気配やおぼろげなる様子ではないでしょう。
 この「げ」「東京ことば」に、あるのでは?田舎者がわからないだけ??

 冒頭の句は「ひかりげ」と読むのでしょうね。
 「朝光げ」は「ちょうこうげ」でしょうか?「あさひかりげ」でしょうか?
 「月光げ」は「げっこうげ」でしょうか?「つきひかりげ」でしょうか?

 しづ子は、5・7・5の定型にこだわらないので、音数での推測は効かないのです。

 「私はこう読む」でもいいですから、教えてください。
(欄外のcommentsをクリックして開いたところにご記入くださり送付してください)
 お願いします。

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俳人 鈴木しづ子 その6

鈴木しづ子の句は『春雷』『指環』の二つの句集で読むことができる。
それで全作品の何割が読めるのかは、いまのところ分からない。
ほかの句は、句誌『樹海』上にある。
「樹海」主宰の松村巨湫の手許にも多く残っていたはず。
それが現在どうなっているのか。

黒澤エンタープライズの川村義之(宣有貴)氏が、しづ子の生涯を映画にしようと各種の資料を収集なさって、仙台にお住みのしづ子の妹(姉と誤記)正子さんから、未発表句の出版了解を得ているとの情報がある。(全労協全国一般東京労働組合三多摩地域支部のホームページ→サイトマップ→今月の一句→2003年7月 元「俳句空間」編集長大井恒行氏)

また、大井恒行氏の手で『コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ』という本が出版されることにもなっているらしい。これが未発表句集なのか、別物か、不分明だが、映画も出版も実現して欲しい。この微細な私のブログなど何の後押しにもならないだろうが、待望の声をあげておきたい。

しづ子の句を何で読むか。あとは私が頼り切っている江宮氏の二作品上にある。『樹海』発表句のほとんどについては、発表号の記載があるのがありがたい。(『樹海』所蔵館は国立国会図書館だけのようだ。また、欠号もかなりある)

今現在鈴木しづ子は行方不明、生死不明である。
『指環』の出版記念会が、昭和27年3月30日に東京神田で開かれる。しづ子は前夜、岐阜から夜行で上京、二次会上での「それでは皆さん、ごきげんよう。そして、さようなら」の挨拶をした。これを最後に『樹海』関係者は誰も彼女の姿を見ていない。松村巨湫への句の送付も昭和27年の秋には途絶えていたはずである。ところが『樹海』上には、昭和38年10月号まで、しづ子の句が掲載され続けた。ここにも彼女が「噂の女」化される原因のひとつがある。『樹海』最後の掲載句は
 
 風鈴や枕に伏してしくしく涕く

 私はこういう句が彼女の本領だと思う(私はそこが好きなのだ)。口語的、感傷的、自由律(この句は座五が字余りだけだが)

 ところで、なぜ彼女は俳句の師にも、実妹にも消息を報せないまま、行方を絶ったのか。最愛の人の死があまりにも辛すぎて・・・、とする自殺説・渡米説があるのだが、肝心の句をひとつ見落としているのではなかろうか。なぜ、この句について江宮は言及していないのか。

 落暉美し身の系累を捨てにけり

 凄い覚悟である。『指環』所収であるから、33歳までの句。最愛の人ケリ-・クラッケの死を江宮は昭和27年正月に電報で知るとしている。そして『指環』には朝鮮戦争に出ている彼へ手紙を出す句はあるが、彼の死を思わせる句はない。だとすれば、係累(東京四季出版本の句の表記は系累となっている)を捨てたのは、彼の死の前。母は既にない。捨てるべき係累は、父・妹ひとりしかいない。江宮の作品では、父とは不仲だったが、妹とは仲良し。ただ、付き合いはほとんどない。いつもしづ子は独りで立っていた。

 「落暉美し」 感傷的である。凄い覚悟なのだが、甘さがある。その甘さが私は好きである。

 
 
  

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俳人 鈴木しづ子 その5

『春雷』の大成功は、しづ子を毀誉褒貶の渦の中に巻き込んだらしい。
そのことを煩わしく、嫌だと思いつつも、どこか他人事であった。
しづ子には、ひとはひと、自分は自分という考えが強くあったからだ。
そう私は確信する。

私のしづ子像のほとんどは江宮の『凍てる指』『風のささやき』によって形作られている。ところが、先に屠蘇の句のところで述べたように江宮は、正確なノンフィクションを書くという意識よりは、小説を書く意識の方が強い。
もちろん小説として発表したわけで、それは、それとしなくてはならない。だが、私は、この小説から事実を拾い出そうとしている。だから、私の古惚けた頭が混乱する。

先に書いておいたが、『春雷』の奥付の作者略歴。これはしづ子が編集者に提供したものだろう。いわば事実。
私は、この奥付に信を置く。「同年(昭和十八年)四月松村巨湫主宰「樹海」(石楠系)に入会」とある。ところが、
『風のささやき』には「しづ子が結社の同人になったのは、既に書いたように、句集『春雷』が大きな評判を呼んだためであった。」とある。(p143-p.144)つまり、昭和21年2月以降入会となる。江宮は、しづ子は、履歴を三女のそれを基に創作したりしたという。「秋燈下こまかくつづるわが履歴」という句。関という職場の同僚と結婚するときに提出した履歴だ。このことが『現代100名句集⑥』(東京四季出版2004.10.20.発行)の作者略歴に伺えるが。

句を鑑賞するためには、ある程度の範囲で、作者が、いつ、どんなところで詠んだかを知っておきたい。しづ子の句を鑑賞する大きな手がかりを江宮作品は与えてくれる。それは、大変ありがたいのだが、こういう句の鑑賞とは直接関係のない、けれども、基本的な部分に信を置けないとなると・・・。私の頭はいっそう混乱する。
それでも江宮さんを頼りに、句を読んでいく。それしか私には方法がないから。

『春雷』所収の句は、今日で終える。かつて、私は図書館を詠んだ短歌や俳句などを収集していたことがある。当時はまったく知らなかった句である。

 図書館を出て夕ざくら散るをみる

 淑徳高女があった近くの伝通院の桜だろうか。図書館は高女のそれか。公共図書館とすれば、上野の帝国図書館か。句から離れるが、東京の図書館史を調べてみたくなる。


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俳人 鈴木しづ子 その4

 北窓はほむらたちそめ縫う衣 
 とほけれど木蓮の徑えらびけり
 夫ならぬひとによりそう靑嵐
 蚊帳の裾ひととき煽ぎはいる妹
 東京と生死をちかふ盛夏かな
 炎天の葉智慧灼けり壕に佇つ
 あはれあはれ秋がきてゐる蘆の靑
 冬の夜や辭しゆくひとの衣のしわ

これらが、『春雷』の一頁を単独で記載された句で、先の屠蘇の句を入れ9句ある。
北窓の句は「ほむらたつ」が何の火なのかが分からず、いまひとつ。木蓮の句はわたしは好きだ。
夫ならぬの句は、彼女の句の特徴のひとつで、「誤解をまねく」「誤解をまねきたい」「おもわせぶり」な内容の句になっている。鈴木しづ子は、この句より育ち、やがて赤裸々な己をさらけだすようになっていくのである。
あはれあはれの句も、彼女の句の特徴である感傷的な抒情と巧まないすぐれた調べを持つ句。そのスタートが、この句であろう。

『春雷』は、おおむねオーソドックスな定型句で句柄も尋常なものが多いといえよう。初学者の処女句集として、当然だが、あえて彼女の特徴としてあげた上の2点を持つ句を拾ってみる。

まず、下司の勘ぐりにまかせれば、誤解をまねく、おもわせぶりな内容、あるいは若い女性の肉体を詠んだ句を。
(こういう選句をする人を下司野郎という。馬鹿なことをしているが、あくまで彼女の句の特徴を際出させるため)

 指の凍てふるるにあらぬ聰き肌
 宵闇やひとにしたがう石だたみ
 銀漢やひそかにぬぐう肌の汗
 湯の中に乳房いとしく秋の庭
 あきあめの衿の黒子をいはれけり
 菊活けし指もて消しぬ閨の燈を
 長き夜や掌もてさすりうすき胸
 さかりゆく人は追わずよ烏瓜
 

次に、感傷的な抒情と巧まないすぐれた調べを持つ句を。
二つとも持つ句とひとつずつ持つ句がある。

 冬の月少女花売り店しまう
 夕風やあかねはなやぐ葱段畑
 さくらはなびら著け笹の葉ふかれゐる
 落穂ひろふやとほきなみおとそびらより

後者の特徴を持つ句は『春雷』には少ないことがわかった。
冬の月の句は「冬の月」「少女」「花売り」「店しまう」が、それぞれ切ることができる。リズムを大切にしたようだ。「冬の月花売り少女店しまう」では平凡。
夕風やの句は、「段」一字で格段に句が良くなっている。景色の写実に拘ったのではなく、あえて字余りして、調べを優先させたのだ。
さくらはなびら しづ子の句は自由律にこそある。次の落穂ひろうやも字余りからスタート。両句とも成功例とは言いがたく、リズムにのりきれていない憾みがあるが、後に成功例が続々登場するだろう。

 

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俳人 鈴木しづ子 その3

  (承前)

鈴木しづ子の処女句集『春雷』は、昭和21年2月10日羽生書房の発行である。
活字に飢えていた戦後直ぐということもあってか、増刷を重ねるほどの売れ行きであったらしい。

この『春雷』の奥付に、ごく簡単な作者略歴がある。

 東京淑徳女学校卒業後、昭和18年3月より作句をはじめ、同年4月松村巨湫主宰「樹海」(石楠系)に入會、現在にいたる。

とある。会社の趣味的なサークルの句会からはじめた、わずか句歴3年未満の若者の句集が出た。
自費出版で出そうと本人は思っていたのだが、出版社の判断で、商品とした。それが売れに売れた。
当然、『樹海』同人からのヤッカミやら、なにやらが渦巻いたらしいが、それはさておき、その『春雷』所収の句から紹介していきたい。

 いにしへのてぶりの屠蘇をくみにけり

 この句集の選句と編集は誰がしたかなどは、江宮作品にゆずるが、『春雷』のノンブルは3から92。一頁に2句が一番多い組方で、あとは3句組も十数頁かあり、一句のみ頁が九頁ある。その最初の頁に一句だけ採られたのが本句である。
 厳密ではないが、季節順の配列で、冒頭句が正月、最終句が12月とするための選句だが、なかなか初学の若い女性の句とは思えない。
 いにしへから伝わる<てぶり>即ち風習に従って屠蘇を酌んだという句意。江宮の『風のささやき』(p.69)によれば、昭和17年の句会でしづ子が披露した句で句会指導者二人の絶賛を得たとあり、さらに「家族と離れ、生れて初めて一人で過ごした元旦に、しづ子は父親の俊雄が昔、屠蘇を家族に注いだことを思い出して作った俳句であった。」と解説し、指導者の賛辞を「そのままの素直な句だが、情景が彷彿とするいい句だ」というセリフにしている。
 『春雷』奥付に18年3月より作句開始とあるのを無視して17年の句に江宮はしている。

 江宮は同書28頁で、しづ子たち一家は東京入谷に昭和18,9年ころまで住んでいたと記述するなど、年表を作成して、文章を綴っていないらしく、彼自身の文章に矛盾があったり、しづ子自身もうまい嘘をつく人らしく描いているので、こんな細かいことに関わっていては駄目だと言うことがわかる。
 
 したがって、私には、情景がうまく浮かばないのだが、それは、本の情報に踊らされたせいで、素直に読むと、いい句に思える。


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俳人 鈴木しづ子 その2

(承前)
鈴木しづ子は謎の多い俳人である。その謎ゆえに惹かれることも多いようだが、まず、生年月日。

『現代100名句集⑥』(東京四季出版2004.10.20.発行)には、彼女の第二句集『指環』が収録されている。そこに付された作者紹介を引用させていただくと、

  生没不詳。大正14年1月4日生まれという説もあるが定かではない。戦時中は神奈川県川崎市の岡本製作所、戦後は東京都府中市の東芝に勤務、昭和23年に職場結婚するが、1年余で離婚し、米軍基地周辺で働いた。俳句は18年頃から松村巨湫主宰「樹海」に拠る。28年、岐阜県各務原から失踪、その後の消息は不明である。
 句集『春雷』(昭21)『指環』(昭27)                          とある。また、

『折々のうた第8集』大岡信著 (岩波新書 1990.2)には、「コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ」が採られているが、その解説に「戦後まもないころ句界に出現、奔放な作風で異色中の異色と評判になった人。岐阜の米軍基地周辺のナイトクラブでダンサーをしている時、本国に妻子をもつ黒人兵と熱烈に愛し合う仲となったが、恋人は朝鮮戦争で戦死、彼女は後を追って服毒自殺した。ここに掲げたのは、代表作として有名な句。下司な勘ぐりに取り囲まれながらいちずな愛を貫き通す女の意地を示す句だが、切ない哀愁、句の切れ味のよさは非凡。」とあり、さらに巻末の作者略歴には「俳人。東京生れ。東京淑徳高女卒後、1943年ころより作句。松村巨湫主宰『樹海』に入会。基地でダンサーをして生計を立てる。結婚を約束した黒人兵が朝鮮戦争で戦死ののち行方不明。1952年10月ころ29歳(?)で自殺か。句集『春雷』『指環』」 と紹介されている。

これだけの文章でも、彼女については、よくわかっていないことが多いことが分かる。それだけに実にさまざまな憶測や下司の勘ぐりが横行している。この私のブログもその一つだが、ネット上にも、そのことが見て取れる。
検索窓に「鈴木しづ子 俳人」と入力して、読んでみるのも一興かと思う。

江宮隆之の二著は、そんな彼女の謎に迫った労作だが、ドキュメンタリの伝記ではなくて、小説にしてしまっているので、事実を追求したい者には、今ひとつ消化不良のまま残ってしまう。残念である。それでも生年月日については、江宮の調査を信用していいだろう。彼は彼女の戸籍が残る役所を見つけている。

鈴木鎮子 大正8年(1919)8年6月9日、東京都神田区三河町2-23 佐分家生まれ(母親綾子の実家、父親はシベリア出征中)


 東京と生死をちかふ盛夏かな

が詠まれたのは1945年。作者26歳。『春雷』所収。「爆撃はげし」という前書あり。生きることを東京と誓う。死ぬことを東京と誓う。生死をともにしたいのが、なぜ日本ではなく、東京なのか。それほど東京が好きなのか。やはり、ここは江宮の鑑賞、出征した恋人の復員地東京という読み方をしておきたい。ただ、盛夏という表現はこれでいいのか。炎夏の方がいいのではないか。そんなことを思う。彼女の句の長所である、調べというのか、詠むときのこころよさというのが、重たいテーマの本句にも、十分に現われている。 なお、敗戦の日に詠んだ句を参考までに

 「昭和二十年八月十五日皇軍つひに降る」と前書して 『春雷』所収。

 炎天の葉智慧灼けり壕に佇つ                    (続く)

 

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俳人 鈴木しづ子 その1

俳句は17音と余りにも短い。
ゆえに省略がある。
それゆえ季語の持つ伝統に助けを借りたり、省略を読み手が補ったりして味わわなくてはならない。

私などは、言葉に対する感覚が鈍いうえに、季語にも造詣がない。
したがって、有名な俳句などは、有名なだけで、いい俳句だと思う、ずぶの素人である。
まず、そんな断りをしておく。そして更に富田木歩について書いたときと同じ遁辞を述べておく。

作品や作者の名を忘れた。
ある明治期の骨董屋のことを書いた小説から、哥川を知り、鈴木しづ子を知った。
そこで、そのしづ子のことを書いた江宮隆之の『凍てる指』(河出書房新社1992.4)を読んだ。
ある句を読んで、感動して、作者を知ったというわけではない。

さらに『風のささやきーしづ子絶唱』江宮隆之著(河出書房新社2004.4)を読んだ。
しづ子の作品を江宮という小説家の導きによって味わったということになる。

これから、いくつかのしづ子の作品を紹介していくのだが、上のことをまず念頭に置いていただければと思う。
もちろん、俳句の何たるかを知らない素人の句をめぐる雑談。こんな断りをするまでもないか。

句作品を17音の文字だけで味わう。これが当たり前のことなのだが、そうは簡単にはいかない。私などは作者名を見なければ、古今の名句も味わえない。芭蕉が詠んだから名句となる。ピカソが描いたから名画となる。そうでなくても、作者がどんな人で、いつころどこで詠んだかが、おぼろげでいいから分からないと鑑賞出来ないのである。

例えば

  東京と生死をちかふ盛夏かな

 太平洋戦争のとき、東京空襲が激しくなってきたころの作品だと知る。そこで、何故疎開しなかったのか、そのわけを想像するのが句観賞となるのだろうか。作者は何歳だったのか。いつ、どこで詠んだかが分かって初めて鑑賞できる。現代の若者の句とすれば、猛暑の東京「あつくて死にそう」といったところか。

しづ子は昭和20年夏何歳だったのか。生年月日くらいは知りたいと思う。ところが、生没年不明とする本もある。
                                                             (続く)

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富田木歩 その7 終

木歩の作品を14点読んで来た。
素人が玄人の句を批評するのもおこがましいが、感嘆した作品には出会えなかった。

ただ、俳句と言うものを考えるきっかけを与えてくれた。
彼にとって、俳句は生きるということとほぼ同意義であった。
私にとっては暇つぶし。
その私が木歩の作品を批評する。
そのうち罰が当たるかも知れぬ。

どこかで、だれかが書いていた。あいまいな記憶だが
「発表された俳句は、作者名など考慮しなくても読者に理解されるものでないと一流の作品とは認められない」と
私もそうだと思う。

木歩の作品は、彼の境涯がわかって初めて味わえる句が多い。
だから、彼は一流ではない。そういえないこともない。
けれど俳句は一部一流のひとのためにあるのではない。

ただ私などには、俳句を観賞する能力がないために、有名な作者の有名な句より、小学生の句がいいと思えるときがある。

作品には十分力があるのに、読者にそれがわからないとき
作品には力がないのに、読者が勝手に力があると思うとき

結局私には何が何だかわからないのである。
努力して人並みの鑑賞力をつけたいのだが、なにが人並みなのかも知らない。
出来る限り沢山の句を読んでいきたいと思う。
そうすれば私にも人並みの鑑賞力がついてくると信じたい。

 木歩は、関東大震災で命を失った。27歳という若さで。貧困・足萎え・結核と十分すぎるほどの苦難の果てに震災の業火のために落命する。お涙頂戴でもなんでもいい。彼の句は、やはりこの生きざまを知らないでは、味わうことができない。それでいいではないか。俳句の世界は広いのである。

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富田木歩 その6

 遠火事に物賣通る静かかな

大正十年作。火事が冬の季語。遠くの火事。物売りが知らせて歩いているのか。煙でそれと分かるのか。野次馬が群がることもない。物売りは何を商っているのか。その物売りの声だけが響いているのか。ただ、静かなのだ。つまり「静か」を詠んだ句。芭蕉の岩にしみいる蝉の声の句に比べては、いけないか。場末の物悲しい風景は見える。

 なりはひの紙魚と契りてはかなさよ

大正十一年作。紙魚が夏の季語。「しみ」というルビあり。「貸本屋をいとなみはや一年に及ぶ」という前書がある。姉の家の三畳間を「平和堂」という貸本屋にした。近くの苦界で働く女性が主な客だった。契るべき女性とも結局は出会わず紙魚と共に生活する。季節の夏の感じはしない。秋か冬。貸本屋家業を嫌ってるわけではない。自分の来し方行く末を果敢無んでいるのか。

 女出て螢賣よぶ軒淺き

大正十二年作。これには夏の季節感がある。近くの家の女性が蛍売りを呼び止めている声が聞こえる。浴衣姿であろう。もっと近しい、いや恋人でいて欲しかった隣りの小鈴だったのか。

 

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富田木歩 その5

 たまさかは夜の街見たし夏初め

大正8年作。「初め」を「はじめ」とする本もある。歩けないことで我慢しなければならないことは沢山あったに違いない。この句は賑わう夜の街を見たいという思いを素直に詠んだ句。おそらく夏初めになると下町では朝顔市とか植木市とかがあちこちであったのだろう。彼の家の横を歩いて多くの人が行き来していたのか。
 我慢していたのかはじめから諦めていたのか、足のせいか、貧乏のせいか、彼は小学校にも行っていない。かな文字を、「いろはかるた」や「めんこ」で覚え、漢字はふりがなつきの読み物などで、自分で覚えたようだ。

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

大正8年作。「亡き人々を夢に見て」の前書がある。父・弟・妹・背負って名月を見せてくれた友、身近にたくさんの死を見てきた。孤独な夜に彼らの夢を見た。夢の中では孤独でなかった。なつかしいと思った。向島三囲神社境内にこれを刻んだ句碑があるそうだ。江宮隆之の伝記小説のタイトルは、この句に由来するのだろう。死の観念に寄りかかった甘い作品だと評価しない人もいるようだが、私は好きである。夢の中でしか生きている実感が持てない、そんな日が何日もあるではないか。

 葛飾や釣師ゆきかふお元日

大正9年作。「かつしか」とルビがある。現在の我々が「葛飾」と聞けば、何を思い浮かべるだろうか。柴又、帝釈天、寅さん。私にはこれしか浮かばない。当時は米騒動も起こり、貧しい人々の生活はたいへんで繁華街浅草からあぶれた人が亀戸や玉の井に移住していた。隅田川の東、その辺一帯を葛飾と呼んでいたそうだ。水田や沼が多くあり、また、そんな土地を埋め立てて住宅が立ちならぶようになった新開発地帯である。その玉の井へ木歩も母と二人で、ある人の妾になっている姉について向島から移り住んだ。引越し間もない二階から眺めた風景を詠んだ句。正月早々近くの沼で多くの人が釣りをするらしい。何が釣れるのか。食材獲得が目的か。レジャーではないだろう。「お元日」の「お」は五音にするためにつけたのではなく、彼や彼の家族の日常語なのだろう。

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富田木歩 その4

 木の如く凍てし足よな寒鴉

 大正6年の作。寒さで足の感覚がなくなる。木歩の障害を具体的には知らないから憶測(こんな憶測してはいけないかもしれないが)でいうと、膝付近までは感覚があり、その膝あたりが寒さで痛むことがあるらしい。「霜焼の膝ッ子うづく夜伽かな」という句もある。ついでに言えば、俳号の木歩とは「木で作った義足」の意味である。彼自身が木を細工して義足つくりに執念を燃やしたときがある。「哀れ我が歩みたさの一心にて作りし木の足も今は半ばあきらめて、其の残りの木も兄の家の裏垣の枸杞茂る中に淋しく立てかけてありぬ」という前書を置く「枸杞茂る中よ木歩の残り居る」という句がある。おそらくこの句中の木歩のことも、この「木の如く・・・」の感慨の中に潜んでいるであろう。暖房も十分にはとれない生活苦も。鴉よお前も寒いか。

 かそけくも喉鳴る妹よ鳳仙花

 大正7年作。喉に「のど」のルビ。妹に「いも」のルビ。咽喉と表記したもの、「いもと」とルビした形もある。また「病妹二句」の前書を置く本もある。咽喉を鳴らしている妹は肺病。数年前、聾唖の弟を同じ病で亡くしている木歩が看病している。家計が苦しいので医者にもあまり通えないし、十分な栄養もとれない。かすかな妹の喘音が彼の胸に響く。妹が鳳仙花の花びらをつぶし爪を染めて(マニュキアに似てるのか)遊んでいた日のことを思い出す。小さいときから女工に出、苦界に身を沈め、肺病にかかり暇を出された妹。足萎えの自分に出来るのは・・・。やがて、妹も死んでいく。

 宵ひそと一夜飾りの幣裁りぬ

 大正7年作。幣に「ぬさ」のルビ。「裁りぬ」を「裁ちぬ」とする本が多い。「きりぬ」より「たちぬ」の方が音がいいと私は思う。常識がないので季語は、「幣」か「一夜飾り」か。行事のようだから、無季には出来ない。調べてみた。「一夜飾り」が季語。「注連飾り」の項に出てくる。正月飾りを大晦日にすることで忌むべきこととされている。忌むことだからひそかにやっている。一人ではないだろう。飾りつける人が必要だ。多分、側に母親がいる。忙しくて大晦日までつくる時間がなかったというよりは、幣をつくる紙の用立てに時間がかかったのだろう。他家の余りを貰ってきたのか。来年こそは、いい歳にしたいのだが・・・。
 

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富田木歩 その3

    夜寒さや吹けば居すくむ油蟲
 
     我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮

   我が尻に似てしなびたる糸瓜かな

 *上の句の糸は2句とも糸を二つ並べた形だが、字が見つからず、このブログでは(私の腕では)表現できない。

 3句とも大正6年の作。

 油虫の句
   すばしこく逃げるはずの油虫でさえ、寒さで動けない。寒さが身に染む。

 蜘蛛の句には「病臥」という前書きがある。
   死んだように眠るほかない体に蜘蛛が糸を張る。自嘲なのか?冷徹な写実なのか?

 糸瓜の句
   これまた、自嘲なのか?冷徹な写実なのか?

 全体的に見て彼の句は、湿ったところは少ないので、目の前に現出する現象を切り取った写実の句と取った方がよいのだが、貧困と下半身不随という現実にどうしても、読む我々は影響を受けてしまう。

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富田木歩 その2

富田木歩の著作を国立国会図書館のOPACで検索すると、次の9件がヒットする。
1.木歩句集 富田木歩著 新井声風編 素人書屋 昭和9
2.木歩文集 富田木歩著 新井声風編 素人書屋 昭和9
3.富田木歩全集 新井声風編 素人書屋 昭和10
4.定本木歩句集 新井声風編 交蘭社 昭和13
5.富田木歩全集 決定版 新井声風編 世界文庫 1964
6.木歩句集 富田木歩著 新井声風編 世界文庫 1966
7.木歩文集 富田木歩著 新井声風編 世界文庫 1966
8.現代俳句集成 第4巻 大正/村上鬼城他著 山本健吉ほか編集 河出書房新社 1982
9.松倉米吉・富田木歩・鶴彬 松倉米吉・富田木歩・鶴彬著 イー・ディー・アイ 2002

ほかの「文学全集」中に収録されたものがあるのだが、内容細目まではヒットできないようである。そこで、近くの図書館のOPAC(Online Public Access Catalogue コンピュータで検索する図書館の所蔵目録データベース)を検索すると
10.現代日本文學全集 91 現代俳句集 筑摩書房 昭和32
11.日本の詩歌 30 俳句集 中央公論社 昭和45 

がヒットした。
 10には、出典として「定本木歩句集」「遺句集稿本草味」を挙げているが、国会図書館のでは発見できない。いずれにしても、木歩の作品は、親しい句友だった新井声風が編集して世に出たもので、5が文字通り決定版だと思うが、私は目にしていない。10(231句収録)と11(51句収録。これには出典についての記述はない)に、別に読んだ伝記的小説 
[12] 鬼気の人 花田春兆著 こずえ 1975
 の巻末に春兆選で「木歩七〇句」を載せていた。そこで、このブログに紹介する木歩の句は
 この10・11・12に共通して掲載された14の句にした。表記に違いのあるときは10の記述に従う。勿論横書きは、ブログ表記の都合による。

 鰻ともならである身や五月雨

 この句には「我等兄弟の不具を鰻賣るたたりと世の人云ひければ」という前書きがある。大正六年の作。弟は口が利けないハンディを持つ。富田家は東京向島で大和田といううなぎ屋を営んでいたが、家運が悪く、度々の洪水などで貧窮し、父親も失意のうちに死んでしまい、兄が後を継いでいたがうまくはいかない。その弱り目に祟り目の家を悪口がおそう。この家の状況が判らなければ、上の句は味わうことはできない。だからこそ、前書きがあるのだが、秀句とは言えない。が、背景を知ると無視するわけにもいかない。そんな句だ。

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富田木歩 その1

作品や作者の名を忘れた。
ある明治期の骨董屋のことを書いた小説から、哥川を知り、鈴木しづ子を知った。
そこで、そのしづ子のことを書いた江宮隆之の『凍てる指』(河出書房新社1992.4)を読んだ。
その本の中に「冬木風ー木歩の青春」が併載されていた。
こうして、木歩という俳人を知った。
ある句を読んで、感動して、作者を知ったというわけではない。
伝記的小説から木歩を知り、その小説中にある句を読んだというわけである。

したがって、木歩の作品を江宮という小説家の導きによって味わったということになる。
虚心坦懐、真っ直ぐ作品に向き合ったわけではない。

これから、いくつかの木歩の作品を紹介したいのだが、上のことをまず念頭に置いていただければと思う。
もちろん、俳句の何たるかを知らない素人による句をめぐる雑談以外のものではないので、こんな断りをするまでもないかとは思う。

 背負はれて名月拝す垣の外

大正3年木歩17歳のときの作。おそらく句作りを始めたころの作品だろう。
「拝す」というから、背負われているのは、作者自身で、子どもが負ぶわれて月を見ているのを眺めて詠んでいるのではない。
木歩自身が人に負ぶわれて、中秋の名月を観賞している。
垣の外に出ている。月は中空にあるのか、家の中からは見づらいのであろう。
負ぶっている人と負ぶわれている人の関係はわからないが、そばに他の人はいないようだ。
雲はそれほど広がってはいまい。晧晧としたいい月夜のようである。

句としては、とりたてて感心するところはない。

が、しかし、作者は、下半身不随で、歩くことも起つこともできないのである。この背景があるので、この句を彼の句集のトップにおく他ないのだろう。
作品だけを純粋に味わうほかに、作者の人間を感じていく読み方もあるのではないか。
「作品が全てである」と言い切ってもいい芸術なのだが、だとすれば、句の世界が狭くなりすぎる。
もっとミーハー的に、あるいはもっと読者の勝手な読みに委ねてしまう、素人の、庶民のためのものであってもいいのではなかろうか。

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